築地小劇場 (つきじしょうげきじょう)
【概説】
1924(大正13)年、演出家の小山内薫と土方与志によって東京の築地に建設された、日本初の新劇専用の劇場およびその劇団。関東大震災後の復興期において、日本の近代演劇(新劇)運動の画期的な拠点となった。大正から昭和初期にかけて、海外の近代劇の紹介やプロレタリア演劇運動の発展に決定的な影響を与えた。
震災復興と「演劇の実験室」の誕生
1923(大正12)年9月に発生した関東大震災は、東京の伝統的な劇場街に壊滅的な打撃を与えた。この未曾有の災害を契機として、かねてよりヨーロッパの近代演劇を日本に根付かせようとしていた演出家の小山内薫と、若き演劇亡命帰国者で財産家でもあった土方与志が協力し、新しい演劇の創造へと乗り出した。土方の私財を投じて、1924年6月、震災の焼け跡が残る東京・築地にバラック建てながらも最新の照明設備(クッペルホリゾントなど)を備えた「築地小劇場」が常設劇場として開館した。
築地小劇場は、従来の歌舞伎や新派劇といった商業演劇・娯楽演劇に対抗し、演劇を「純粋な芸術」として確立することを目指す「実験室」と位置づけられた。開館から最初の2年間は、日本の創作戯曲を一切上演せず、シェイクスピアやチェーホフ、ゴーリキーなど、ヨーロッパの近代劇・前衛劇の翻訳上演に専念するという徹底した方針をとり、日本の知識層や学生から熱狂的な支持を集めた。
劇団の分裂とプロレタリア演劇への展開
築地小劇場の運動は日本の演劇界に大きな刺激を与えたが、昭和期に入ると、その運営方針や思想性をめぐって内部対立が表面化する。特に1928(昭和3)年末の小山内薫の急死は、劇団の精神的支柱を失わせる決定打となった。折しも時代は、労働運動や社会主義運動の高揚を背景としたプロレタリア文化運動の全盛期を迎えていた。
1929年、劇団は階級闘争や社会変革を重視する「左翼的・プロレタリア演劇」を志向するグループ(土方与志、秋田雨雀ら)と、演劇の芸術的自立性を重んじる「芸術派」のグループ(青山杉作、千田是也ら)に分裂した。前者によって築地小劇場は左翼演劇運動の拠点(日本プロレタリア劇場同盟など)として活用され、当時の社会不安や労働問題を鋭く描いた作品が次々と上演された。しかし、1930年代に入ると軍国主義の台頭に伴う国家統制と治安維持法による弾圧が強まり、1940年には多くの新劇関係者が検挙され、事実上の解散へと追い込まれた。劇場自体も1945年の東京大空襲によって焼失した。
日本近代演劇史における歴史的意義
築地小劇場が果たした役割は、単なる一つの劇場にとどまらない。それまで歌舞伎の圧倒的な影響下にあった日本において、近代的な「演出家」の地位を確立し、写実的な演技、組織的な舞台美術や音響・照明技術など、現代の演劇に繋がるシステムを組織的に導入した点に最大の功績がある。また、この劇場から巣立った劇作家、演出家、俳優(千田是也、宇野重吉、滝沢修ら)は、第二次世界大戦後の新劇界の復興と発展を支える中核となり、日本の現代演劇・映画界の基礎を築くこととなった。