第2回万国平和会議
【概説】
1907年にオランダのハーグで開催された、軍縮や国際紛争の平和的処理などを議題とした国際会議。日露戦争後の日本の外交方針に揺さぶりをかける「ハーグ密使事件」の舞台となり、近代日本における朝鮮支配の強化に決定的な影響を与えた出来事。
万国平和会議の開催と国際秩序
第2回万国平和会議は、ロシア皇帝ニコライ2世の提唱によって1899年に開かれた第1回会議に続き、1907年6月から10月にかけてオランダのハーグで開催された。44カ国が参加したこの会議では、陸戦法規の改定(ハーグ陸戦条約など)や国際仲裁裁判の整備など、戦争の惨禍を抑止するための国際法の整備が進められた。
しかし当時の国際社会は、列強による植民地獲得競争が激化する帝国主義の最盛期であった。この会議もまた、人道的な平和主義を掲げる一方で、強国が弱小国を支配する現実の国際政治の論理(権力政治)に強く支配されていた。
ハーグ密使事件の発生とその背景
この会議を舞台として、日本史において極めて重要な歴史的事件であるハーグ密使事件が発生した。日露戦争に勝利した日本は、1905年に大韓帝国との間で第二次日韓協約(乙巳保護条約)を締結し、統監府を設置して韓国の外交権を剥奪(保護国化)していた。
韓国皇帝の高宗は、この条約が日本の武力的威嚇によって強制された不当なものであると国際社会に直接訴えるため、会議に3人の密使(李儁、李相卌、李威鍾)を派遣した。密使らは条約の無効と韓国の主権回復を訴え、会議への出席を求めた。しかし、日本側の迅速な妨害工作や、イギリス・アメリカなどの列強がすでに日本の韓国に対する指導権・保護権を承認していたことから、国際社会は密使たちの訴えを黙殺し、会議への参入を拒絶した。これにより、弱肉強食という当時の国際秩序の冷酷な現実が露呈することとなった。
日本による韓国支配の本格化と影響
密使の派遣を知った初代韓国統監の伊藤博文は、高宗のこの行動を日韓協約に対する重大な違反行為であるとして激しく非難し、韓国政府に対する圧迫を急速に強めた。日本は高宗を退位に追い込み、わずか皇太子への譲位という形で事態を収束させようとする韓国側の抵抗を排除した。
そして同年7月、日本は第三次日韓協約を締結し、韓国の国政全般に関する内政権をも掌握した。さらに同年8月には韓国軍隊の解散を断行し、これに反発して各地で暴動を起こした義兵(義兵闘争)を武力で徹底的に鎮圧した。このように、第2回万国平和会議は、日本が1910年の「韓国併合」へ向けて一気に支配を完了させる決定的な契機となった。