秩禄奉還の法 (ちつろくほうかんのほう)
【概説】
明治政府が財政負担の大きい秩禄(家禄・賞典禄)を削減するため、1873年(明治6年)12月に定めた制度。士族が自発的に秩禄を返上(奉還)することを条件に、その数年分に相当する一時金(現金と公債)を支給し、これを元手に自立・起業させることを目指した。のちに強制的な廃止へと至る「秩禄処分」の先駆的な政策である。
明治政府を悩ませた秩禄問題と制度の導入背景
明治維新後、新政府は旧大名や藩士などの特権階級に対し、旧来の家禄や維新の功績に対する賞典禄を合わせた秩禄(ちつろく)を支給し続けていた。しかし、これらの秩禄支給額は当時の政府歳出の約3割から4割近くを占めており、近代国家建設(軍備増強、殖産興業、地租改正など)を進める新政府にとって、極めて重い財政負担となっていた。
しかし、特権を急激に奪うことは士族の猛反発を招きかねなかった。そこで新政府は、いきなり強制的な廃止を行うのではなく、まずは士族の「自発的な意志」に委ねる形での整理に着手した。これが秩禄奉還の法である。政府は1873年11月に大蔵卿・大隈重信の建議を受け入れ、同年12月に同法を布告した。
秩禄奉還の具体的内容と士族の経済的自立への思惑
秩禄奉還の法では、士族が自発的に秩禄を国に返上(奉還)した場合、禄高(支給額)の数年分に相当する額を算定し、その半額を現金で、残りの半額を「秩禄公債」という国債で交付することとした。
政府の狙いは単なる財政負担の軽減にとどまらず、旧武士たちを農業や商業などの生産活動へ誘導する士族授産(しぞくじゅさん)にもあった。支給された現金や公債を元手(資本金)として、武士から自立した産業の担い手へと転身させようとしたのである。この制度により、約13万人以上の士族が奉還を願い出た。
「士族の商法」と強制処分への展開
しかし、この制度は必ずしも成功したとは言えなかった。旧武士たちの多くは商業や農業に関する知識や経験を持たなかったため、慣れない商売に手を出して資金をだまし取られたり、事業に失敗したりして瞬く間に没落していった。これが世に言う「士族の商法」である。
また、自発的な奉還のみでは、政府が望んだ財政負担の根本的な解決には至らなかった。政府はさらに強硬な手段をとることを余儀なくされ、1876年(明治9年)に金禄公債証書発行条例を制定し、すべての華族・士族の秩禄を強制的に全廃する「秩禄処分」へと踏み切ることとなった。これに反発した士族たちの不満は、各地での「士族の反乱」や、のちの自由民権運動へと結びついていくことになる。