石山本願寺

山科本願寺が焼失したのち、大坂(現在の大阪城の場所)に築かれ、周囲に強固な寺内町を形成した本願寺派の新たな本山はどこか?
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★★★

石山本願寺

1532年 – 1580年

【概説】
1532年の山科本願寺焼き討ち後、現在の大阪城の地(上町台地)に築かれた浄土真宗本願寺派の巨大な本山。強固な防備と独自の経済基盤を持つ寺内町を形成し、戦国期における最大級の宗教的・軍事的要塞として機能した。織田信長との10年間に及ぶ「石山合戦」の末に開城し、中世的な宗教権力の終焉と近世への転換を象徴する歴史的舞台となった。

大坂の地への移転と本山の形成

1496年(明応5年)、浄土真宗中興の祖である蓮如が、摂津国東成郡生玉之庄内(現在の大坂城付近)に大坂御坊(石山御坊)を建立したのが石山本願寺の起源である。その後、第10代宗主・証如の時代の1532年(天文元年)、近江の六角氏や京都の法華一揆の攻撃によって当時の本山であった山科本願寺が焼き討ちに遭い焼失した(天文の錯乱)。証如はこの大坂御坊へと教団の本拠を移転し、これが後に「石山本願寺」と呼ばれる巨大な要塞都市へと発展していくこととなる。

難攻不落の要塞と巨大な寺内町の発展

石山本願寺が築かれた大坂(上町台地北端)は、西に海(当時の大坂湾)を臨み、淀川や大和川の河口に位置する水陸交通の要衝であった。本願寺はこの地形的優位性と水運網を掌握し、瀬戸内海から京都へと至る莫大な物流の利益を独占して強固な経済基盤を築き上げた。

寺院の周囲には高い土塁や深い堀が巡らされ、本山そのものが堅固な城郭としての機能を持っていた。さらにその内部および周辺には、門徒衆のみならず多くの商人や職人が集住し、広大な寺内町(じないちょう)が形成された。ここでは座の特権廃止や徳政令の免除など独自の自治が行われ、世俗の戦国大名を凌ぐほどの独立国のような様相を呈していたのである。

織田信長との激闘「石山合戦」

第11代宗主・顕如の時代、石山本願寺は最盛期を迎えるが、天下統一を目指して上洛した織田信長と激しく対立することになる。信長からの巨額の矢銭(軍資金)要求や大坂退去の圧力に対し、顕如は1570年(元亀元年)に全国の門徒へ檄を飛ばして挙兵した。これが10年間に及ぶ石山合戦の始まりである。

本願寺は、毛利氏、武田氏、朝倉氏、浅井氏など反信長勢力と「信長包囲網」を形成し、鉄砲隊を駆使した強固な防衛戦で織田軍を大いに苦しめた。特に、瀬戸内海の制海権を握る毛利水軍からの海上補給は石山本願寺の生命線であった。第一次木津川口の戦いでは毛利水軍が織田軍を撃破したものの、後に信長が投入した鉄甲船による第二次木津川口の戦い(1578年)で毛利水軍が敗れると、海上封鎖を受けた本願寺は次第に孤立を深めていった。

開城・焼失と近世都市「大坂」への継承

兵糧が枯渇し、頼みの毛利氏の援軍も期待できなくなった1580年(天正8年)、正親町天皇の勅命講和(勅諚)を受け入れる形で、顕如は信長との和議に同意した。顕如らが紀伊国の鷺森(現在の和歌山県)へと退去したことで、長きにわたった石山合戦は終結した。

しかし開城の直後、原因不明の出火により、壮麗を誇った石山本願寺の堂宇や広大な寺内町は三日三晩燃え続け、完全に灰燼に帰した。この出来事は、中世的な宗教権威が武家権力に屈服したことを決定づける歴史的転換点となった。その後、この要害の跡地に目を付けた豊臣秀吉大坂城を築き、新たな城下町を整備したことで、現在の巨大都市・大阪の発展の礎が築かれることとなったのである。

本願寺と一向一揆

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. 西日本(特に九州)の諸藩が財政を立て直すために栽培を奨励した、和ろうそくの原料となる植物は何か?
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Q. 室町時代に徳政一揆などを起こした、農民や馬借などの民衆(一般百姓)を当時の言葉で何というか?