畠山満家 (はたけやまみついえ)
1372年〜1433年
【概説】
室町時代中期の武将・守護大名であり、室町幕府の管領を計3回にわたって務めた幕政の重鎮。4代将軍足利義持・6代将軍足利義教の二代に仕え、将軍継嗣問題や正長の徳政一揆といった幕府の危機の回避に尽力した。
三度の管領就任と宿老合議制の主導
畠山満家は、室町幕府の管領を輩出する最高家格である「三管領(斯波氏・細川氏・畠山氏)」の一つ、畠山基国の長男として生まれた。満家は父の跡を継いで河内・紀伊・越中などの守護を歴任し、応永5年(1398年)に最初の管領に就任した。以後、生涯で計3回にわたり管領を務め、幕政の頂点に立ち続けた。特に4代将軍足利義持の信任が厚く、将軍と有力守護による合議制(宿老合議制)を実質的に主導し、幕府政治の安定化に大きく貢献した。
将軍継嗣問題への介入と「正長の徳政一揆」の衝撃
満家の政治的キャリアにおいて、最大の難局となったのが足利義持の没後における後継者問題と、それに伴う社会動乱への対応であった。応永35年(1428年)に義持が後継者を指名せぬまま危篤に陥ると、満家ら宿老は石清水八幡宮の「くじ引き」によって後継者を決める方針を採り、義持の弟である青蓮院義円(のちの6代将軍足利義教)を擁立した。しかし、同年には近江の馬借の蜂起を発端とする正長の徳政一揆が発生し、一揆勢が京都へ乱入して徳政を要求する事態となった。管領であった満家は一揆の鎮圧と事後処理に奔走し、幕府としては徳政令の蜂起による発布を公式には拒絶する姿勢を貫いたものの、この社会激変は室町幕府の支配秩序を根底から揺るがす契機となった。