畠山氏

三管領を構成する3氏のうち、河内や紀伊などの守護を務め、のちの家督争いが応仁の乱の引き金となった一族は何か?
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畠山氏

【概説】
室町幕府において細川氏・斯波氏とともに三管領の一つに数えられた有力な守護大名家。河内や紀伊、越中などの守護を世襲し、幕政において重要な地位を占めた。室町時代中期以降に勃発した激しい家督争いは、幕府を二分する応仁の乱の大きな要因となった。

源姓畠山氏の成立と系譜

もともと畠山氏は桓武平氏(秩父氏)の血筋であり、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した畠山重忠が著名である。しかし、重忠の乱によって平氏の畠山氏が滅亡すると、鎌倉幕府の有力者であった北条時政の意向により、足利義純が重忠の未亡人を妻とし、畠山氏の名跡を継承した。これにより、足利氏の一門としての源姓畠山氏が成立した。室町幕府において有力な守護大名として台頭するのは、この足利一門の畠山氏である。

室町幕府における台頭と三管領家の確立

南北朝時代、畠山国清が足利尊氏・基氏に仕えて関東管領として権勢を振るうなど、畠山氏は幕府草創期から重要な役割を担った。その後、畠山基国が第3代将軍・足利義満の厚遇を受け、1398年に管領に就任したことで、同氏の地位は決定的なものとなる。

以降、畠山氏は細川氏・斯波氏とともに、幕府の最高職である管領を交代で務める三管領(三管四職)の一つとして家格を確立した。さらに、河内・紀伊・和泉などの畿内、および越中・能登などの北陸に広大な守護分国を形成し、強大な軍事力と経済力を背景に幕政を主導した。

家督争いの激化と応仁の乱の勃発

15世紀半ば、畠山氏の内部で深刻な家督争いが生じた。当時の当主である畠山持国は、当初実子がいなかったため弟の持富(のちの政長らの父)を養子に迎えたが、のちに実子である畠山義就(よしひろ)が生まれると、義就に家督を継がせようとした。これに対し、持富の子である畠山政長を擁立する一派が強く反発し、家臣団を巻き込んだ激しい対立が引き起こされた。

この畠山氏の内紛は、単なる一族の争いにとどまらなかった。当時の幕府内における二大実力者であった細川勝元が政長を、山名宗全が義就をそれぞれ支援したことで、対立は将軍家の後継者問題や斯波氏の家督争いとも複雑に結びつき、幕府全体を二分する派閥抗争へと発展した。1467年、京都の御霊の森で義就と政長の軍勢が衝突(御霊合戦)し、これが直接的な引き金となって11年にも及ぶ応仁の乱が勃発したのである。畠山氏の分裂は、室町幕府の権威失墜と戦国時代の幕開けを象徴する歴史的事件の最大の要因の一つであった。

戦国時代の領国経営と没落

応仁の乱が終結した後も、義就の系統(総州家)と政長の系統(尾州家)による内紛は終わらず、本拠地である河内や紀伊を舞台に長期間にわたる抗争(両畠山の乱)が続いた。この慢性的な分裂状態は畠山氏の著しい弱体化を招き、守護代である遊佐氏や国人衆の台頭を許す結果となった。

実権を家臣に奪われた畠山氏は、戦国大名として領国を一元的に支配することに失敗し、やがて畿内で覇権を握った三好長慶や織田信長に服属していくこととなる。一方、能登の守護を務めた分家の能登畠山氏も、重臣の専横や内乱に苦しみ、最終的には上杉謙信の侵攻を受けて滅亡した。かつて室町幕政を支えた名門・畠山氏は、時代のうねりを乗り切ることができず、歴史の表舞台から姿を消していったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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