生物進化論
【概説】
イギリスのチャールズ・ダーウィンが提唱した、すべての生物は環境に適応して自然淘汰を繰り返し、長い時間をかけて進化してきたとする理論。日本では明治時代初期に本格的に紹介され、自然科学の枠を超えて思想界や政界に多大な影響を及ぼした。
生物進化論の提唱とその本質
イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィンが1859年の著書『種の起源』において提唱した生物学上の理論である。すべての生物は神によってあらかじめ創造されたのではなく、生存競争のなかで環境に適応した個体が生き残る「自然淘汰(自然選択)」を繰り返し、途方もない時間をかけて多様な種へと進化してきたと説明した。この理論はキリスト教の創造論と真っ向から対立するものであったため、当時の西欧社会に激しい論争を巻き起こした。
エドワード・S・モースによる日本への導入
日本の学界において生物進化論が初めて体系立てて紹介されたのは、明治10年(1877)のことである。大森貝塚の発見でも知られるアメリカのお雇い外国人、エドワード・S・モースが東京大学理学部の動物学講義においてダーウィンの理論を解説した。日本では西欧のようなキリスト教の絶対神への信仰が社会の基層に根付いていなかったため、宗教的教義との対立による強い拒絶反応は起きず、むしろ西洋の最新の科学的真理として比較的スムーズに受容されていった。
社会進化論への転化と加藤弘之の転向
日本史において生物進化論が極めて重要視されるのは、それが単なる自然科学の理論にとどまらず、社会科学や政治思想に援用されて多大な影響を与えたからである。イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーらは、生物界の生存競争の原理を人間社会や国家間の関係に当てはめ、「優勝劣敗」「弱肉強食」を説く社会進化論を唱えた。
日本では、初期には啓蒙思想家として天賦人権論を説いていた加藤弘之が、この社会進化論の影響を受けて自らの思想を大きく転換させた。加藤は明治15年(1882)に『人権新説』を著し、人間社会も生存競争の場である以上、強者が弱者を支配するのは自然の理であるとして、天賦人権論を「妄想」と痛烈に批判した。これは、当時高まりを見せていた自由民権運動を理論的に牽制し、明治政府の専制支配や国家主義を正当化する強力な武器となった。
近代日本の国家運営と帝国主義への影響
社会進化論として変容しながら受容された進化論的思考は、その後の日本の国家運営にも深く影を落とした。明治政府が推し進めた富国強兵や殖産興業といった政策は、過酷な国際社会という「生存競争」を生き残り、列強(強者)の仲間入りを果たすための必然的な適応策として認識された。
さらに、日清・日露戦争を経て日本がアジアにおける帝国主義国家へと膨張していく過程において、他国や他民族に対する支配や進出を「優勝劣敗の自然法則」として正当化するイデオロギー的背景としても機能した。このように、本来は生物学の枠組みであった生物進化論は、明治日本の近代化と国家主義的イデオロギーの形成を根底から支える重大な思想的基盤となったのである。