溥儀

日本軍によって天津から連れ出され、建国された満州国の元首(執政、のちに皇帝)に就任した清朝最後の皇帝は誰か?
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★★★

溥儀 (ふぎ)

1906〜1967

【概説】
清朝の最後の皇帝(宣統帝)であり、後に関東軍によって擁立されて満州国の元首(執政、のち皇帝)となった人物。辛亥革命によって退位した後、満州事変を契機に日本軍の傀儡として満州国のトップに据えられた。日本の敗戦と満州国の崩壊後はソ連に抑留され、極東国際軍事裁判で証言を行ったのち、新中国で一市民として数奇な生涯を閉じた。

清朝最後の皇帝からの転落

愛新覚羅溥儀は、光緒帝の死後、西太后の指名によりわずか2歳で清朝第12代皇帝(宣統帝)として即位した。しかし、1911年に勃発した辛亥革命により、翌1912年に退位を余儀なくされ、ここに約300年続いた清朝の歴史は幕を閉じた。退位後も優待条件により紫禁城に居住することを許され、西洋人家庭教師のもとで近代的な教育を受けて育った。しかし、1924年の北京政変で軍閥によって紫禁城を追放されると、日本の公使館に保護を求め、のちに天津の日本租界へと移り住んだ。これが、後の彼の運命を日本の大陸政策と深く結びつける決定的な契機となった。

満州国の建国と傀儡元首への道

1931年に満州事変が勃発すると、中国東北部(満州)の権益確保と新国家樹立を目論む関東軍は、清朝復辟(皇帝政権の復活)を望む溥儀の心理を巧みに利用した。関東軍の土肥原賢二らの工作によって溥儀は天津から密かに連れ出され、1932年3月の満州国建国に伴い、国家元首である執政に就任した。さらに1934年には帝政が施行され、満州国皇帝(康徳帝)として即位することになる。

満州国は表面上「五族協和」や「王道楽土」を掲げる独立国家であったが、その実態は日本(関東軍)が政治・軍事・経済のあらゆる実権を掌握する傀儡国家であった。溥儀の権限は極めて制限されており、国務院総理や各部大臣には中国人が就いたものの、実質的な決定権は日本人の次長(のち総務庁長官など)が握っていた。溥儀は関東軍の指示に盲従する名目上の君主に過ぎず、彼自身も次第に自らの置かれた現実に深い不満と孤独を募らせていった。

日満関係の象徴と国家の崩壊

満州国皇帝としての溥儀は、日満の「一徳一心(不可分の関係)」を演出するための象徴的な役割を担わされた。1935年と1940年には公式に日本を訪問し、昭和天皇と会見している。また、満州国内では日本の国家神道が強制的に導入され、溥儀自身も建国神廟で天照大神を祀ることを強要されるなど、満州国に対する日本の精神的・文化的な支配も強化されていった。

しかし、日本の敗色が濃厚となった1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を破棄して対日参戦し、満州へ一斉侵攻を開始する。関東軍は事実上崩壊し、溥儀は満州国の首都・新京(現在の長春)から南方の通化へと逃亡した。同年8月15日の日本のポツダム宣言受諾に伴い、8月18日に溥儀は退位を宣言。ここに満州国は、建国からわずか13年余りで滅亡した。その後、日本への亡命を図って奉天(現在の瀋陽)の飛行場にいたところをソ連軍の空挺部隊に捕らえられ、ソ連国内へと連行された。

東京裁判への出廷と晩年

ソ連に抑留された溥儀は、1946年に開廷した極東国際軍事裁判(東京裁判)において、ソ連側の証人として法廷に立った。彼は自らの満州国元首就任は関東軍の脅迫によるものであり、自分は完全な被害者であって一切の責任は日本側にあると証言し、日本の侵略性を強調して自己保身を図った。

1950年、身柄を中華人民共和国に引き渡された溥儀は、撫順の戦犯管理所に収容され、約10年間にわたる共産主義思想への改造と再教育を受けた。1959年に国家主席・劉少奇の特赦令によって釈放されると、北京植物園の庭師や全国政治協商会議の文史資料研究委員会の専門委員として勤務した。かつて「天子」と称された男は一人の市民として余生を送り、文化大革命の混乱のさなかである1967年に、病のため波乱に満ちた61年の生涯を閉じた。後に執筆された自伝『わが半生』は、映画『ラストエンペラー』の原作にもなり、激動の東アジア近現代史を象徴する記録として世界的に知られている。

わが半生 上: 満州国皇帝の自伝 (ちくま文庫 あ 18-1)

波乱の歴史に翻弄された満州国皇帝の孤独と苦悩を克隆し、激動の昭和を当事者の視点で描き切った歴史的自叙伝の金字塔。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

日本史一問一答(ランダム)

Q. フランス領インドシナと呼ばれていた地域のうち、戦後にホー・チ・ミンの指導下で独立を宣言し、フランスと戦争状態になった国はどこか?
Q. 織田信長が足利義昭を奉じて行ったような、地方の大名が軍勢を率いて政治の中心である京都に入ることを何というか?
Q. 縄文時代の屈葬に対して、弥生時代以降に主流となった、死者の手足を真っ直ぐに伸ばして葬る方法を何というか?