法然(源空) (ほうねん(げんくう)
【概説】
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した僧で、日本における浄土宗の開祖。主著に『選択本願念仏集』がある。阿弥陀仏の救いを信じてひたすら念仏を唱える「専修念仏」の教えを広めて民衆や武士の支持を集めたが、旧仏教勢力からは激しい弾圧を受けた鎌倉新仏教の先駆者である。
比叡山での修行と専修念仏の開眼
法然(本名:漆間時国の子、幼名:勢至丸)は、美作国(現在の岡山県)の押領使の家に生まれた。幼くして父を夜討ちで失ったことを契機に仏道に入り、比叡山延暦寺に登って出家した。比叡山では天台宗の教学を深く学び、「智慧第一の法然房」と称されるほどの学識を得た。しかし、末法思想が蔓延し、戦乱や飢饉が相次ぐ世において、厳しい修行に耐えられない一般の民衆や自らをいかに救済するかに深く苦悩することとなる。
その求道の中で、中国唐代の浄土教の僧・善導が著した『観経疏(かんぎょうしょ)』の一節(散心専念の文)に触れる。これにより、自らの力(自力)による厳しい修行ではなく、阿弥陀仏の本願力(他力)にすがり、ひたすら「南無阿弥陀仏」と称えること(専修念仏)こそが、すべての人間が極楽往生できる唯一の道であるとの確信に至った。
浄土宗の開宗と『選択本願念仏集』
1175年(承安5年)、43歳となった法然は比叡山を下り、京都の東山吉水に草庵を結んで専修念仏の教えを説き始めた。この年が浄土宗の立教開宗の年とされている。
法然の教えは、厳しい戒律の遵守や造寺・造仏、学問を必要とせず、ただ念仏を唱えるだけで救われるというものであった。これは、当時の社会不安の中で救いを求めていた庶民や武士、さらに女性など、従来の仏教では救済の対象から外れがちであった階層から爆発的な支持を得た。
また、公家社会においても九条兼実のような有力者の帰依を受けた。兼実の懇請によって執筆されたのが主著『選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)』である。同書において法然は、阿弥陀仏があらゆる修行の中から念仏のみを往生の行として「選択」した理論的根拠を示し、浄土宗の教義を体系化した。
旧仏教の反発と建永の法難
法然の専修念仏の教えが広まるにつれ、国家鎮護を担ってきた南都北嶺の旧仏教勢力(延暦寺や興福寺など)との間に激しい摩擦が生じた。念仏以外の行を捨てよと説く法然の教えは、既存の仏教界から見れば伝統的な秩序や教義を根本から否定する危険な思想と映ったのである。
1205年、興福寺の僧徒が朝廷に専修念仏の停止を求める「興福寺奏状」を提出するなど、弾圧の機運が高まった。さらに1207年(建永2年)、法然の弟子である安楽や住蓮が営んだ念仏法会に後鳥羽上皇の女官が密かに参加し出家するという事件(松虫・鈴虫事件)が起こり、上皇の逆鱗に触れた。
これにより専修念仏は禁止され、弟子たちは死罪、法然自身も還俗させられて「藤井元彦」の俗名で土佐国(実際には讃岐国)への流罪に処された。これを建永の法難(承元の法難)と呼ぶ。この時、弟子の親鸞も越後国へと流されている。
鎌倉新仏教における歴史的意義
晩年、法然は赦免されて京都に戻り、建暦2年(1212年)に80歳で入滅した。
法然の歴史的意義は、仏教を国家や一部の貴族の独占物から解放し、「個人の救済」を目的とする民衆の宗教へと大転換させた点にある。彼の思想は、厳しい修行や学問を重視する従来の「自力」の仏教に対し、「他力本願」という新たなパラダイムを日本仏教にもたらした。
法然によって切り拓かれた教えは、その後、弟子の親鸞による浄土真宗や、孫弟子にあたる一遍の時宗などへと受け継がれ、鎌倉新仏教の大きな潮流を形成していくこととなった。法然はまさに、日本における民衆仏教の扉を開いた偉大な先駆者であった。