沙市・重慶・蘇州・杭州

下関条約において、日本が清国内での商業活動を拡大するために新しく開港・開市させた4つの都市をすべて挙げよ。
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重要度
★★

【参考リンク】
重慶市(Wikipedia)

沙市・重慶・蘇州・杭州 (さし・じゅうけい・そしゅう・こうしゅう)

1895年

【概説】
日清戦争の講和条約である下関条約において、日本が清国に新たに開港・開市させた長江流域および江南地方の4つの都市。近代日本が東アジアにおいて帝国主義的な市場拡大を目指した象徴的な地名であり、列強による中国分割を本格化させる契機となった地である。

下関条約の締結と新開港地の要求

1894年に勃発した日清戦争は日本の勝利に終わり、翌1895年4月に山口県赤間関(現在の下関市)において下関条約(馬関条約)が締結された。全権である伊藤博文と李鴻章の間で交わされたこの条約において、日本は領土の割譲(遼東半島・台湾・澎湖諸島)や巨額の賠償金(2億両)のほかに、東アジア市場における優位性を確立するための通商特権の大幅な拡大を清国に要求した。

その具体的内容として、従来の対等な日清修好条規を破棄し、日本が欧米列強と同等の特権を得るための新たな日清通商航海条約の締結を規定した。その一環として、清国内陸部の輸送・商業の要衝であった沙市重慶蘇州杭州の4都市を新たに開港・開市させ、日本船の就航や日本人の居住、商業活動の自由を認めさせたのである。

4都市の地理的・経済的意義

新たに開港された4都市は、いずれも中国の経済生命線である長江水系や大運河沿いに位置する重要な拠点であった。四川省の重慶は長江上流に位置し、西南中国・奥地市場への入り口となる大都市である。湖北省の沙市(現在の荊州市沙市区)は長江中流の綿花の集散地であった。江蘇省の蘇州と浙江省の杭州は、古くから「江南の至宝」と称された豊かな地域に位置し、大運河に直結する絹織物や茶の世界的産地であった。

日本がこれら4都市の開港を求めた背景には、沿海部にとどまらず、人口稠密な中国内陸深奥部の市場に直接アクセスし、日本の主要輸出品であった綿糸や綿布などの工業製品を売り込むと同時に、現地の豊かな原材料を安価に獲得しようとする強い意図が存在した。

「製造業経営権」の獲得と列強への波及

下関条約の第6条では、これら新開港地における製造業の経営権(租界などに工場を建設し、製品を製造・販売する権利)が日本に認められた。これはそれまで欧米列強も獲得していなかった画期的な特権であったが、近代の不平等条約に特有の片務的最恵国待遇を通じて、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツなどの列強にも自動的にこの権利が適用されることとなった。

これにより、4都市は日本のみならず列強資本が流入する拠点となり、外国資本による中国国内での工場建設や鉄道敷設が一気に本格化した。下関条約による沙市・重慶・蘇州・杭州の開港は、清国の半植民地化を決定づけ、19世紀末から始まる激しい「列強による中国分割」を引き起こす直接的な引き金となったのである。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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