永井荷風

雑誌『三田文学』を拠点とし、江戸情緒や花街の風俗を好んで描いて日本の耽美派文学の先駆者となった作家は誰か?
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重要度
★★★

永井荷風

1879年〜1959年

【概説】
明治末期から昭和期にかけて活躍した、耽美派(唯美派)を代表する小説家・随筆家。フランスなどの外遊から帰国後、慶應義塾大学教授として雑誌『三田文学』を創刊し、自然主義文学に対抗する陣営を張った。『あめりか物語』などで新風を吹き込み、後に『腕くらべ』や『濹東綺譚』などで近代化に抗う享楽的・唯美的な江戸情緒を描き出した。

外遊体験と耽美派文学の確立

永井荷風は、当初エミール・ゾラなどの影響を受け自然主義の傾向を持っていたが、1903年から1908年にかけてのアメリカおよびフランスへの外遊が彼の文学観を大きく転換させた。帰国後に発表した『あめりか物語』や『ふらんす物語』(風紀壊乱として発禁処分)は、西洋の洗練された都市文化や芸術至上主義的な空気を色濃く反映しており、当時の文壇に大きな衝撃を与えた。これにより荷風は、当時の日本文壇の主流であり、私生活の赤裸々な告白や暗い現実の描写を重んじていた日本型自然主義文学に反発し、美や官能の追求を至上の価値とする耽美派(唯美主義)の指導的作家としての地位を確立していった。

『三田文学』の創刊と谷崎潤一郎の発見

1910(明治43)年、荷風は森鷗外や上田敏の推薦を受け、慶應義塾大学文学部教授に就任した。そして同年、同校の機関誌として雑誌『三田文学』を創刊する。大正時代を通じて、荷風はこの雑誌を拠点に反自然主義の文学運動を展開し、多くの優れた才能を育て上げた。中でも特筆すべきは、当時無名の学生であった谷崎潤一郎の才能をいち早く見出し、彼の作品『刺青』などを激賞して文壇に送り出したことである。これにより、耽美派の系譜は次世代へと強力に受け継がれることとなった。

江戸情緒への傾倒と「戯作者」としての抵抗

荷風の文学的態度は、1910年の大逆事件を契機に変化を見せる。国家権力の強権的な弾圧を目の当たりにした荷風は、知識人としての無力感と近代化を突き進む国家への深い幻滅を抱き、現実社会の政治や思想から意図的に距離を置くようになった。自らを江戸時代の「戯作者(げさくしゃ)」になぞらえ、急速に失われゆく江戸情緒や、下町の花街、遊里といった日陰の世界に美を見出すようになる。この時期を代表する『腕くらべ』や『おかめ笹』『つゆのあとさき』などの作品では、近代化の波に取り残された人々の哀歓や享楽的な世界が、洗練された擬古典的な文体で見事に描き出されている。

戦時下の沈黙と『断腸亭日乗』

昭和に入り、軍部の台頭とともに言論統制が強化されると、多くの文学者が戦争に協力(文学報国会への参加など)していく中、徹底した個人主義者であった荷風は一切の妥協を拒絶し、公の場での執筆活動をほぼ停止した。しかし、その間に密かに書き綴られていた日記『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』には、熱狂する世相や軍部に対する冷徹な観察と痛烈な批判が記されており、昭和史における極めて貴重な時代証言となっている。戦後は『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』などが高く評価されて再び脚光を浴び、1952(昭和27)年には文化勲章を受章。権力に阿らず、生涯を通じて己の美意識を貫徹した孤高の作家であった。

あめりか物語 (岩波文庫 緑 42-6)

新天地で異邦人として揺れ動く青年の孤独と焦燥を、繊細かつ端正な筆致で描き出した明治の海外体験記。

腕くらべ (岩波文庫 緑41-2)

新橋の芸者社会を舞台に、移ろいゆく美と愛欲の機微を鮮烈に切り取った、日本自然主義文学の傑作。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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