橋本龍太郎内閣
【概説】
自社さ連立政権の村山富市首相の退陣を受け、自由民主党総裁の橋本龍太郎を首班として組織された内閣。バブル崩壊後の深刻な平成不況が続くなかで、緊縮財政や行政改革をはじめとする構造改革を推進した。しかし、消費税率の引き上げなどの負担増が景気を冷え込ませ、参議院選挙での大敗により総辞職へと追い込まれた。
「自社さ連立」の継承から自民党単独政権への移行
1996年1月に誕生した橋本龍太郎内閣(第1次)は、前身である村山富市連立内閣の枠組みを引き継ぎ、自由民主党、日本社会党(直後に社会民主党へ改称)、新党さきがけの3党連立政権としてスタートした。1955年の結党以来、日本政治を主導してきた自民党が、細川護熙連立内閣による一時的な下野を経て、約2年半ぶりに首相の座を奪還した瞬間でもあった。同年に実施された第41回衆議院議員総選挙(初の小選挙区比例代表並立制を導入)で自民党は過半数に迫る議席を獲得し、翌1997年には社民・さきがけ両党が閣外協力へと転じたことで、実質的な自民党単独政権(第2次橋本内閣の改造内閣)を復活させた。
「六大改革」の推進と中央省庁再編の道筋
橋本内閣は、戦後長らく維持されてきた日本の行政・経済システムが限界に達しているとの認識のもと、行政改革、財政構造改革、金融システム改革(日本版金融ビッグバン)、社会保障構造改革、経済構造改革、教育改革の「六大改革」を掲げた。なかでも行政改革においては、縦割り行政の弊害を排し、官邸主導の政治を実現するために中央省庁再編の基本方針を定めた。これは、従来の1府22省庁を1府12省庁に統合・再編するものであり、のちの森喜朗内閣、小泉純一郎内閣期(2001年)に実施される大改革の道筋をつけた。また、金融危機の深刻化に対応するため、大蔵省から金融行政を分離独立させる方針(のちの金融庁新設)も決定した。
財政再建の試みと消費税率の引き上げによる景気の失速
もう一つの重要課題が、巨額の財政赤字からの脱却を目指す財政再建であった。橋本内閣は1997年4月に、それまで3%だった消費税率を5%へ引き上げ、同時に特別減税の廃止や医療費の自己負担増を実施した。しかし、同年に発生したアジア通貨危機や、山一證券、北海道拓殖銀行などの大手金融機関の相次ぐ破綻(金融危機)が重なり、国内景気は急激に冷え込んだ。この緊縮財政路線(財政構造改革法)は「平成の大不況」を深刻化させたとして世論の猛烈な批判を浴び、1998年7月の第18回参議院議員通常選挙において自民党は大敗を喫し、内閣は退陣を余儀なくされた。橋本内閣の挫折は、その後の日本におけるデフレ不況の本格化を決定づける契機となった。