格式 (きゃくしき)
【概説】
日本の古代・中世社会において、基本法典である律令の規定を補足・修正する法律(格)と、その施行細則(式)の総称。社会の変動に合わせて頻繁に発布され、後代の公家法や武家法にも多大な影響を与えた。
律・令・格・式の構造と役割
日本の律令制は、中国の唐の法体系に倣って構築された。「律」は現代でいう刑法、「令」は行政法や民法などの諸制度を定めた基本法典である。しかし、社会情勢は常に変化するため、固定化された律令の条文だけでは現実の行政や社会問題に対応できなくなっていった。
そこで、天皇の詔勅や太政官符などの形で、必要に応じて単行の法令が次々と発布された。このうち、律令の規定を根本的に修正・補足・追加するものを「格(きゃく)」と呼び、律令や格を実際に運用するための詳細な施行細則や行政手続きを定めたものを「式(しき)」と呼んだ。すなわち「格式」とは、建前としての基本法典(律令)と、現実社会との間に生じたズレを埋めるために機能した、極めて実務的・現実的な法令群であったと言える。
平安時代の「三代格式」とその権威
時代が下り平安時代に入ると、長年にわたって蓄積された膨大な「格」と「式」が散逸し、法適用に混乱をきたすようになった。そこで、朝廷はこれらを体系的に整理・分類する大編纂事業を断行した。嵯峨天皇の時代の『弘仁格式』、清和天皇の『貞観格式』、醍醐天皇の『延喜格式』であり、これらを総称して「三代格式」と呼ぶ。
特に『延喜式』はほぼ完全な形で現存しており、神祇祭祀、宮中の儀式、地方行政の実態などを知るための超一級の歴史史料となっている。三代格式が編纂されたことで、「格式」は律令と並んで国家の不動の法源としての権威を確立した。
鎌倉時代における格式の展開と公家法
古代の律令体制が実質的に崩壊し、武家政権である鎌倉幕府が成立した鎌倉時代においても、「格式」という概念と法的権威は失われなかった。鎌倉時代の法体系は、京都の朝廷が支配する公家法、幕府が支配する武家法、荘園領主が支配する本所法の多元的な構造(公武二元支配)となっていた。
鎌倉幕府は武士社会の道理に基づき、歴史的にも有名な『御成敗式目(貞永式目)』を制定したが、これも「式(施行細則)」や「目(条目)」という格式の系譜を引く名称が用いられている。一方で、朝廷を中心とする公家社会においては、依然として三代格式が絶対的な基本法(公家法)として効力を持っていた。
鎌倉時代の朝廷は、武家法に対抗して自らの裁判権や支配秩序を維持するため、天皇や上皇が発布する新たな単行法令である「新制(公家新制)」を頻繁に出した。これも広い意味では律令や過去の格式を補完する「格」の系譜に連なるものであり、中世社会においても格式という法的枠組みは形を変えながら息づいていたのである。
歴史的史料としての極めて高い価値
歴史学や法制史の観点から見ると、格式は基本法典である律令以上に「当時の生々しい社会状況」を色濃く反映している。農民の逃亡や偽籍、浮浪、班田収授法の崩壊、荘園の発生といった深刻な社会問題に対して、国家がどのように対応し、どのような政策で乗り切ろうとしたのかが、格式の条文から具体的に読み取れるためである。
格式は単なる法律の羅列ではなく、国家の理想(律令)と、社会の現実との間で行われた妥協と調整の歴史そのものであり、日本史を深く理解する上で欠かすことのできない重要な要素である。