松平定信
【概説】
江戸時代中期から後期の譜代大名で、8代将軍徳川吉宗の孫にあたる人物。白河藩主としての手腕を買われて老中首座に抜擢され、田沼意次の政治を否定して厳格な「寛政の改革」を主導した。幕府の権威回復と財政再建を目指したが、極端な復古主義と統制策が反発を招き、わずか6年余りで失脚した。
御三卿・田安家からの出自と白河藩での実績
松平定信は、8代将軍徳川吉宗の次男である田安宗武の子として生まれた。聡明であった定信は、一時は10代将軍徳川家治の継嗣候補として目されることもあった。しかし、当時の幕政を牛耳っていた老中・田沼意次に疎んじられたことなどから、陸奥国白河藩の久松松平家へ養子に出されることとなった。この出来事が、定信に強い反田沼の感情を抱かせたとも言われている。
白河藩主となった定信は、折しも全国を襲った天明の飢饉に直面する。彼は他藩に先駆けて食糧の買い付けを行い、領民への徹底した救済措置と厳格な備蓄政策(社倉・義倉の整備)を断行した。その結果、白河藩からは一人の餓死者も出さなかったとされ、定信は天下の「名君」としてその名声を大いに高めることとなった。
田沼政治の否定と老中首座への就任
当時の幕政は田沼意次によって主導され、重商主義的な政策により財政は潤いを見せていた。しかし、商品貨幣経済の急激な発展は農村の荒廃や貧富の差の拡大を招き、賄賂政治による綱紀の乱れも深刻化していた。加えて、天明の飢饉や浅間山の噴火などの自然災害、さらには全国規模での一揆や打ちこわしが頻発し、幕府の権威は大きく揺らいでいた。
1786年に将軍家治が死去すると、反田沼派の台頭により田沼意次は失脚する。御三家などの強力な推挙を受けた定信は、1787年に弱冠29歳で老中首座に就任し、11代将軍徳川家斉を補佐する形で幕政再建の全権を握ることとなった。
「寛政の改革」の展開と復古的政策の限界
定信が主導した寛政の改革は、祖父・吉宗の「享保の改革」を理想とした厳格な重農主義と質素倹約を基本方針とした。農村の復興を目指し、江戸に流入した農民を帰郷させる旧里帰農令や、各村に穀物の備蓄を命じる囲米を実施。また、江戸の町に対しては経費節減分の7割を積み立てさせる七分積金を行って困窮者救済にあてた。旗本・御家人に対しては、札差への借金を帳消しにする棄捐令を発布し、武士の救済を図った。
さらに、社会の風紀粛正と引き締めを図るため、極端な統制策もとられた。寛政異学の禁によって湯島聖堂での朱子学以外の講義を禁じ、思想の統一を図ったほか、洒落本や黄表紙などの娯楽出版物を厳しく取り締まり、山東京伝や林子平らを処罰した。
これらの政策は、一定の幕府財政の立て直しや社会不安の鎮静化には寄与した。しかし、あまりにも窮屈で息苦しい政治は、町人だけでなく武士層からも強い不満を買い、「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という狂歌が流行するほどであった。定信の政策は、すでに不可逆的に発展していた商品貨幣経済の実態と乖離した、時代錯誤的な復古主義という限界を抱えていた。
尊号一件と突然の失脚
定信の厳格さは、朝廷や将軍家との関係においても摩擦を生んだ。光格天皇が、皇太子を経ずに即位した自身の生父・閑院宮典仁親王に対し、太上天皇(上皇)の尊号を贈ろうとした際、定信は身分秩序を乱すとしてこれを強硬に拒否した(尊号一件)。この事件により、定信は朝廷との関係を極度に悪化させた。
これと並行して、将軍家斉も自身の実父である一橋治済に大御所の称号を贈ろうと画策したが、定信はこれも同様の理由で拒絶した。これにより将軍家斉や治済の反感をも買った定信は孤立を深め、1793年、海防視察の途上に突如として老中を罷免された。定信の失脚により、寛政の改革はわずか6年余りで幕を閉じることとなった。
老中退任後、定信は白河藩の藩政に専念し、教育や産業の振興に尽力した。また、彼は優れた教養人でもあり、自伝的随筆『宇下人言(うげのひとごと)』や『花月草紙』などの著作を残し、文化史においても独自の足跡を残している。