東京遷都
【概説】
1869年(明治2年)、明治天皇が京都から旧江戸城(東京城)に移り、東京が日本の事実上の首都となった歴史的出来事。旧弊を打破して天皇親政の近代国家を樹立するため、新政府の政治的拠点を関東に移したものであり、現在の首都・東京の基礎が築かれる決定的な転換点となった。
遷都論の浮上と大阪遷都建白
1867年末の王政復古の大号令によって誕生した明治新政府は、旧弊に縛られた京都の公家社会から離れ、人心を一新して新たな国家体制を築く必要性を痛感していた。1868年(慶応4年)正月、大久保利通は外交や富国強兵に有利な地として大阪遷都建白書を提出した。しかし、これに対しては保守的な公家や長年天皇を戴いてきた京都市民から猛烈な反発が巻き起こり、完全な遷都は断念せざるを得ず、天皇が一時的に大阪へ赴くという形に留まった。
「東京」の誕生と第一回の東幸
戊辰戦争が進行し、1868年4月に江戸城が新政府軍に無血開城されると、関東および東北地方の鎮撫が新政府の最重要課題となった。ここで佐賀藩の大木喬任や江藤新平らが、徳川氏の本拠地であった江戸を新政府の拠点とする「江戸遷都論」を唱えた。これを受け、同年7月に「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、江戸は東の都である「東京」へと改称された。そして同年9月(旧暦)、明治天皇は京都を出発して10月に東京城(旧江戸城)に到着した。これを「東幸(とうこう)」と呼ぶ。しかし、この段階ではあくまで一時的な行幸という位置づけであり、天皇は12月に一度京都へ還幸(帰還)している。
事実上の遷都と「東京奠都(てんと)」
翌1869年(明治2年)春、明治天皇は再び東京へ向かう「第二回の東幸」を行った。この際、太政官をはじめとする新政府の主要な行政機関も東京へ移され、以後、天皇が京都へ戻ることはなかった。こうして、東京は名実ともに日本の事実上の首都となったのである。ただし重要なのは、新政府が京都の公家や市民の反発・暴動を恐れ、明確に「首都を東京に移す」という「遷都の詔(みことのり)」を公式には発していない点である。そのため、京都側への配慮から「遷都」ではなく、東西の両京を並び立たせるという意味合いを込めて「東京奠都(てんと)」と呼ばれることもある。
近代日本の首都形成と歴史的意義
東京遷都は、近代天皇制国家の形成において極めて重要な政治的デモンストレーションであった。約260年間続いた徳川幕府の牙城であった江戸城を天皇の新たな居城(皇居)とすることで、旧幕府勢力に対する新政府の絶対的な権威を誇示し、東日本の支配を確固たるものにする狙いがあった。これにより東京は、政治・経済・文化の中心として急速に近代化を推し進めていくこととなる。一方で、千年にわたり都であった京都は深刻な人口減少と経済的衰退の危機に直面した。この危機感が原動力となり、のちの琵琶湖疏水の建設や日本初の小学校設立など、京都独自の先進的な近代化・産業振興策が強力に推し進められるきっかけともなったのである。