昌平坂学問所(昌平黌) (しょうへいざかがくもんじょ(しょうへいこう)
【概説】
江戸幕府が寛政の改革の一環として、林家の私塾であった聖堂学問所を直轄化して整備した儒学の教育機関。朱子学を正学とする文教政策の中核を担い、多くの官僚や知識人を輩出した。
林家私塾の官立化と寛政の改革
昌平坂学問所の起源は、徳川家康に仕えた儒学者・林羅山が、寛永年間(1630年頃)に上野忍岡に設けた私塾に遡る。第5代将軍・徳川綱吉の時代には、この塾が湯島に移転されて「湯島聖堂」となり、林家が主宰する「聖堂学問所」として存続した。しかし、長年の間に学風が沈滞し、財政難や門弟の減少に苦しむようになっていた。
この状況を一変させたのが、老中・松平定信が進めた寛政の改革である。定信は、たるんだ武士の気風を引き締め、有能な官僚を育成するために学問の刷新を企図した。1790年(寛政2年)、幕府は朱子学以外の学問を制限する寛政異学の禁を布告し、朱子学を「正学」として公認。これに伴い、1797年(寛政9年)に林家の私塾であった聖堂学問所を完全に幕府の直轄機関とし、敷地を拡張して「昌平坂学問所(昌平黌)」へと改組した。なお、「昌平」の名は儒学の祖である孔子の生誕地「昌平郷」に由来している。
学問吟味の導入と幕末への影響
幕府直轄となった昌平坂学問所では、旗本や御家人などの幕臣の教育が徹底された。特に、幕臣の学力向上と優秀な人材の登用を目的とした「学問吟味」と呼ばれる国家試験制度が導入された。この試験の成績優秀者は、官僚としての昇進や重用への道が開かれたため、幕臣たちの勉学意欲を大いに刺激することとなった。
さらに、昌平坂学問所は幕臣だけでなく、諸藩の藩士が遊学(留学)することも許可していた。ここで学んだ全国の優秀な藩士たちは、故郷に戻って各藩の藩校で教育にあたり、あるいは幕末の政局で活躍する志士となった。昌平坂学問所で培われた朱子学的な名分論や尊王思想は、皮肉にも幕府を倒す思想的原動力(尊王攘夷運動)の一部へと繋がっていく。明治維新後、昌平坂学問所は新政府に引き継がれ、後に東京大学へと連なる近代教育機関の源流の一つとなった。