早良親王

藤原種継暗殺の疑いをかけられて憤死し、その怨霊が疫病などを引き起こしたと恐れられ、御霊信仰の対象となった桓武天皇の弟は誰か。
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重要度
★★

【参考リンク】
早良親王(Wikipedia)

早良親王 (さわらしんのう)

750年頃〜785年

【概説】
奈良時代末期から平安時代初期にかけての皇族で、桓武天皇の同母弟。長岡京遷都の推進役であった藤原種継の暗殺事件に連座して廃太子となり、無実を訴えながら配流の途上で憤死した。その後、その怨霊が皇室や国家に災厄をもたらすと恐れられ、平安京への再遷都や御霊信仰の成立に決定的な影響を与えた悲劇の人物である。

皇太子擁立と藤原種継暗殺事件

早良親王は光仁天皇の皇子として生まれ、若くして出家して東大寺などで修行に励み、「親王禅師」と称されていた。しかし、兄である桓武天皇が即位した延暦元年(781年)、光仁天皇の意向などもあり還俗(げんぞく)し、皇太子(東宮)に立てられた。これは当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(のちの平城天皇)がまだ幼少であったため、皇位継承を安定させるための中継ぎとしての擁立であったとされる。

延暦3年(784年)、桓武天皇は仏教勢力の影響が強い平城京から長岡京への遷都を断行する。この遷都事業を実質的に主導し、新都造営の責任者となったのが、天皇の側近であった式家の藤原種継であった。しかし、翌延暦4年(785年)9月、種継が造宮現場で何者かに射殺されるという大事件が発生する。事件の背後には、遷都に反対する大伴氏や佐伯氏などの旧豪族層の抵抗があった。そして、逮捕された関与者らの取り調べの過程で、早良親王も事件に関与していたという疑惑が浮上することとなった。

非業の死と長岡京を襲った「怨霊」の脅威

事件への関与を疑われた早良親王は直ちに皇太子を廃され、長岡京近郊の乙訓寺(現・京都府長岡京市)に幽閉された。親王は自らの無実を訴えるために絶食をもって激しく抗議したが、朝廷はこれを受け入れず、淡路国への流罪を決定。親王は配流の途上、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市)において、衰弱の末に憤死した。遺体はそのまま淡路国に葬られた。

親王の非業の死の後、桓武天皇の身辺で不吉な出来事が相次ぐようになる。まず、桓武天皇の母である高野新笠や、皇后の藤原乙牟漏が相次いで病死した。さらに、新しく皇太子となった安殿親王が精神的な重病を患い、長岡京一帯には激しい洪水や疫病(天然痘)が蔓延した。これらを恐れた朝廷が陰陽師に占わせたところ、すべては無実の罪で死に追いやられた「早良親王の怨霊」の祟り(たたり)であると断定され、朝廷全体が激しい恐怖に包まれることとなった。

平安遷都への影響と「崇道天皇」への追贈

怨霊の執拗な祟りから逃れるため、桓武天皇は未完成の長岡京の造営をわずか10年で放棄することを決断。延暦13年(794年)、新たな都として平安京への遷都を急いだ。平安遷都の最大の動機の一つが、この早良親王の怨霊を封じ込め、その活動範囲から物理的に距離を置くためであったことは歴史的に広く認められている。

同時に、朝廷は怨霊の怒りを鎮めるための「御霊(ごりょう)鎮撫政策」を次々と実行した。延暦19年(800年)には、早良親王に対して天皇の尊号である「崇道天皇(すどうてんのう)」を追贈し、墓を「陵(みささぎ)」と改めて大和国(現・奈良市八島町の崇道天皇陵)へ改葬した。この一連の出来事は、不遇の死を遂げた人物が怨霊となって生者に祟りをなすという御霊信仰の先駆的な事例となり、のちの菅原道真の天神信仰などに代表される、日本独自の霊魂観を決定づける契機となった。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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