敦成親王 (あつひらしんのう)
【概説】
一条天皇の第二皇子で、のちに第68代天皇(後一条天皇)として即位した平安中期の内親嗣。母は藤原道長の長女・彰子。道長に「外祖父」の地位をもたらし、藤原氏北家による摂関政治の全盛期を決定づけた契機となる人物である。
摂関家の運命を握った待望の皇子誕生
敦成親王は1008年(寛弘5年)、藤原道長の邸宅である土御門殿にて誕生した。この時の様子や道長一門の歓喜ぶりは、彰子の家庭教師であった紫式部が著した『紫式部日記』に克明に描写されている。
当時、一条天皇にはすでに亡き后・藤原定子との間に第一皇子である敦康親王がいた。しかし、道長にとっては自らの血を引かない敦康親王が皇位に就くことは、政権維持の上で避けるべき事態であった。そのため、長女の彰子に皇子が誕生することは道長の悲願であり、敦成親王の誕生は摂関家の権力を盤石にするための決定打となったのである。
敦康親王との立太子争いと政治的決着
一条天皇は、第一皇子であり文才にも恵まれていた敦康親王を後継者に望んでいたとされる。しかし、政権の実権を握る道長は、敦康親王の後見人(外戚)が不在であることを理由に、自らが外祖父となる敦成親王の立太子を強硬に推し進めた。
1011年(寛弘8年)、一条天皇の譲位に際して、道長の意向通りに敦成親王が皇太子に立てられた。この決定は、能力や出生順よりも「有力な外戚(バックボーン)の有無」が皇位継承を左右するという、摂関政治の論理が完全に貫徹された瞬間であった。
後一条天皇としての即位と道長全盛期の現出
1016年(長和5年)、三条天皇の譲位に伴い、敦成親王はわずか9歳(数え年)で即位した(後一条天皇)。これに伴い、道長は天皇の外祖父(母方の祖父)として、念願であった摂政の座に就任した。
後一条天皇の時代、道長はその権力を背景に、天皇の中宮に自身の三女である威子を入れ、太皇太后(彰子)、皇太后(妍子)、中宮(威子)のすべてを自身の娘で独占する「一家立三后」の偉業を達成した。後一条天皇の存在こそが、道長に「この世をば我が世とぞ思う」という有名な和歌を詠ませるに至った、摂関政治最盛期の礎となったのである。