撫順炭鉱 (ぶじゅんたんこう)
【概説】
中国東北部(旧満州)の撫順に存在した、東洋最大規模の露天掘り炭鉱。1905年の日露戦争後の講和条約であるポーツマス条約によって、日本がロシアから租借権を引き継ぎ、南満州鉄道株式会社(満鉄)の主要な直営事業として莫大な富を生み出した一大エネルギー拠点である。
ポーツマス条約と権益の獲得
撫順炭鉱は、もともと清代から石炭の存在が知られていたが、19世紀末にロシアが東清鉄道(のちの南満州鉄道)の敷設権とともに採掘権を獲得し、本格的な開発に着手した。しかし、1904年に勃発した日露戦争において日本軍が占領。1905年のポーツマス条約によって、長春以南の鉄道利権(南満州支線)およびその沿線に付随する炭鉱採掘権が日本へと譲渡されることとなった。その後、1909年に締結された日清満洲五案件に関する条約(間島協約などを含む)によって、清朝政府からも正式に日本の撫順炭鉱・煙台炭鉱の採掘権が承認され、日本の満州進出における経済的基礎が確立された。
満鉄による近代化と東洋最大の露天掘り
1907年、半官半民の国策会社である南満州鉄道株式会社(満鉄)が本格的に営業を開始すると、撫順炭鉱はその直営事業に組み込まれた。満鉄はアメリカから最新鋭の掘削機や蒸気機関を導入し、大規模な「露天掘り(地表から直接石炭を削り取る方法)」を採用した。撫順の石炭層は非常に厚く、かつ地表近くに位置していたため、極めて低コストでの大量採掘が可能であった。ここで採集された高品質の「撫順炭」は、満鉄自身の機関車の燃料として使用されたほか、鞍山製鉄所の原料、さらに日本本土への重要な輸入エネルギー資源として活用され、満鉄の莫大な経常利益を支える最重要部門(ドル箱)となった。
満州支配の陰と戦後の帰趨
撫順炭鉱の急激な発展と巨額の利益は、過酷な労働環境に置かれた中国人労働者(苦力:クーリー)の犠牲の上に成り立っていた。1930年代に入り、満州事変を経て満州国が建国されると、石炭は軍需物資として重要性をさらに増し、労働統制と増産圧力が一段と強化された。1932年には、炭鉱近くの平頂山集落が抗日ゲリラと通じたと疑われ、日本軍によって住民が虐殺される「平頂山事件」が発生するなど、日本の植民地支配の暴力性を象徴する場所ともなった。1945年の敗戦後、炭鉱はソ連軍による接収を経て中国共産党政府へと引き渡され、戦後は中華人民共和国の戦後復興と重工業化を支える主要な炭鉱として再始動することとなった。