律宗

南都六宗のうち、唐から来日した鑑真によって伝えられ、僧侶となるためのルール(戒律)の授受を専門とした学派は何か?
カテゴリ:
重要度
★★

律宗 (りっしゅう)

754年伝来

【概説】
奈良時代に唐の僧・鑑真によって日本に伝えられた、僧侶が遵守すべき「戒律」の研究と実践を重視する仏教宗派。奈良仏教を代表する「南都六宗」の一つ。出家者の秩序維持と国家統制のための制度的な基礎を築いた。

戒律の必要性と鑑真の苦難に満ちた来日

奈良時代前半の日本仏教は、鎮護国家の思想のもとで急激に発展したが、同時に税の免除などを目的として自称する「私度僧(しどそう)」が急増し、僧風の退廃と国家財政の圧迫が大きな問題となっていた。これを正すため、朝廷は僧侶として守るべき規範である「戒律」を正しく授けることのできる指導者(伝戒師)を中国に求めた。遣唐使に同行した留学僧の普照(ふしょう)や栄叡(ようえい)らの招請に応じたのが、揚州の大明寺の住職であった高僧・鑑真(がんじん)であった。

鑑真の渡日への道程は過酷を極め、唐朝の引き止めや暴風雨などの不運が重なり、5度にわたり渡航に失敗した。その過程で栄叡が病死し、自身も失明するという苦難に遭いながらも、753年に6度目の挑戦でついに日本に到着した。翌754年に平城京に入り、聖武太上天皇や光明皇太后らに日本で初めての正式な授戒を行った。

授戒制度の整備と律宗の定着

鑑真の来日によって、日本に体系的な戒律制度がもたらされた。それまで曖昧だった「正式な僧侶」の資格が、戒律を授かる儀式(授戒)を経ることで明確に定義されるようになった。鑑真は東大寺に戒壇院(かいだんいん)を建立し、さらに地方の僧侶にも授戒の機会を与えるため、筑紫の観世音寺(かんぜおんじ)、下野の薬師寺(やくしじ)にも戒壇を設けた。これらは「本朝三戒壇(ほんちょうさんかいだん)」と称され、日本で僧侶となるための必須の関門となった。

759年、鑑真は朝廷から与えられた新田部親王(にいたべしんのう)の旧邸宅に唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建し、ここを律宗の根本道場として戒律の学究と実践を進めた。律宗は、経典の教理研究を中心とした他の南都五宗(三論・成実・法相・倶舎・華厳)とは異なり、日々の生活態度や修行のルールを厳格に律するという、きわめて実践的な性格を持っていた。

鎌倉時代における復興運動と社会救済への展開

平安時代に入ると、最澄が比叡山において独自の「大乗戒壇」を設立し、奈良の従来の戒律を批判したことや、仏教の世俗化・形骸化が進んだことにより、律宗は一時衰退した。しかし、鎌倉時代に入ると、仏教界全体の頽廃に対する反省から、「釈迦の正しい教えに立ち返る」運動として戒律の重要性が再認識された。

特に西大寺の叡尊(えいそん)は、国家の力に依存しない自誓授戒(自分たちの誓いによって受戒する)を行い、真言密教と律宗を融合させた「真言律宗」を確立して、徹底した戒律の実践に努めた。さらにその弟子である忍性(にんしょう)は、鎌倉の極楽寺を拠点とし、貧民やハンセン病患者などの社会的弱者の救済、土木事業(道路や橋の建設、医療施設の開設)に尽力した。奈良時代に国家仏教の秩序維持のために導入された律宗は、鎌倉時代に至って「社会福祉」と「大衆救済」を担う、極めて活動的な実生活の宗教へと生まれ変わったのである。

鑑真和上伝 唐大和上東征傳

海を越え幾多の苦難を乗り越えて戒律を日本へともたらした、不屈の僧・鑑真の壮絶なる生涯を刻んだ記録。

中世の都市と非人-武家の都鎌倉・寺社の都奈良- (法蔵館文庫)

中世都市の周縁に生きる「非人」の視点から、鎌倉と奈良の権力構造と社会の変容を鮮やかに解き明かす歴史探求。

最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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