富士講 (ふじこう)
【概説】
富士山を神聖視する浅間(せんげん)信仰に基づき、江戸時代中期以降に江戸を中心に爆発的な流行を見せた民間信仰の結社。共同で資金を積み立てて富士登山(参詣)を行うことを目的とし、最盛期には「江戸八百八講」と称されるほどの広がりを見せた庶民の互助的組織である。
富士講の源流と食行身禄による大衆化
富士山は古くから霊峰として修験者たちの修行の場であり、神仏習合の浅間信仰と結びついていた。戦国時代から江戸初期にかけて、長谷川角行(はせがわかくぎょう)が富士山のふもとの人穴(ひとあな)で修行を行い、独自の富士信仰の教えを確立したことが富士講の直接的な起源とされる。
この信仰が江戸の庶民層へと大流行する契機となったのが、18世紀前半の享保年間、角行の弟子系統にあたる食行身禄(じきぎょうみろく)の登場である。身禄は、身分秩序を否定せず、現世での真面目な労働や日常生活における道徳の実践を重んじる平易な教えを説き、江戸の町人や職人の間で熱狂的な支持を集めた。1733年、身禄は富士山の吉田口烏帽子岩にて自ら断食を行う「入定(にゅうじょう)」を遂げ、殉教した。この衝撃的な事件により、身禄は救済者として神格化され、江戸庶民の間で富士講を結成する動きが一気に加速することとなった。
「江戸八百八講」の組織システムと旅の娯楽化
富士講は「講」と呼ばれる組織をつくり、メンバー(講員)が毎月「講金(こうきん)」と呼ばれるわずかな資金を出し合って積み立てた。そして毎年夏、山開き(陰暦6月1日)の時期になると、講の中から選出された代表者が旅費を支給され、団体または代参として富士山へと旅立った。富士山麓の吉田(現在の山梨県富士吉田市)などには、講員を宿泊させ、登山の案内や祈祷を行う御師(おし)と呼ばれる宗教者が存在し、彼らが江戸の各講と契約を結ぶことで組織的な富士登山が支えられていた。
江戸時代は庶民の移動が厳しく制限されていたが、社寺参詣は数少ない例外として認められていた。そのため富士講は、厳しい修行としての登山という側面を持ちながらも、江戸庶民にとっては日常を離れた観光やレクリエーション(旅)としての性格も強く有していた。また、実際に富士山へ行くことができない老人や女性、病人のために、江戸市内の各所には富士山の溶岩を運んで築いたミニチュアの山である富士塚(ふじづか)が造られた。この富士塚に登ることで、本物の富士山に登拝したのと同様のご利益があるとされ、さらなる流行を呼んだ。
幕府による弾圧と近現代への継承
富士講の急速な普及と組織化は、秩序の維持を第一とする江戸幕府から警戒の対象となった。特に、多額の資金が講に集まること、独自の強力なネットワークを持つこと、そして身禄の教えが時に「世直し」的な現世批判へとつながる可能性を秘めていたことから、幕府は富士講を「邪宗」として度々禁止令を出した。
しかし、庶民の富士信仰への執着は衰えず、講員たちは名称を変えるなどして地下に潜り、信仰を維持し続けた。幕末期には小谷三志(おだにさんし)により、女性の富士登山解禁や、より社会実践的な教えへと改革がなされ、明治以降の「実行教」や「丸山教」といった教派神道(神道十三派)へと発展・継承されていくこととなる。富士講は、単なる宗教活動にとどまらず、江戸の都市社会における庶民の相互扶助コミュニティ、あるいは独自のレジャー文化の開花を示す、極めて重要な歴史事象である。