宋学(朱子学) (そうがく(しゅしがく)
【概説】
南宋の朱熹(しゅき)が集大成した、宇宙の根本原理と人間の道徳規範を一体化させた儒学の新しい学派。君臣や父子などの厳格な上下関係を重んじる「大義名分論」を説いた。鎌倉時代に禅僧を通じて日本に伝来し、のちの建武の新政や江戸幕府の体制教学、幕末の尊王攘夷思想などに計り知れない影響を与えた。
新儒学の誕生と基本理念
宋代以前の儒学は、漢唐時代を中心に経典の字句解釈を重んじる訓詁学(くんこがく)が主流であった。しかし、学問が次第に形式化していくなかで、仏教や道教の高度な宇宙論や心性論に対抗しうる、新しい儒教思想の構築が求められるようになった。そこで北宋時代に周敦頤や程顥・程頤らによって思弁的な新儒学が創始され、それを南宋の朱熹(朱子)が集大成して成立したのが宋学(朱子学)である。
朱熹は、万物は物質的な要素である「気」と、万物を貫く普遍的な法則・原理である「理」から成り立っているとする理気二元論を提唱した。そして、人間の本性もまた善なる「理」そのものであるとする「性即理」を説き、私利私欲を抑えて自らの内なる理を窮め、道徳的に完成された聖人を目指す実践倫理を強調した。
大義名分論と華夷思想の強調
宋学の最も重要な社会的側面は、君臣や父子といった現実社会の身分秩序を、天地を貫く不変の「理」に基づくものとして絶対視した点にある。身分に応じた道徳的義務(名分)を厳格に守るべきだとするこの思想は、大義名分論と呼ばれる。
この強固なイデオロギーの背景には、当時の南宋が直面していた国家存亡の危機がある。南宋は北方異民族である金に国土の北半分を奪われ、常に軍事的・政治的圧迫を受けていた。こうした状況下において、自国こそが文明の中心である「中華」であり、他は野蛮な「夷狄」であると厳格に区別する華夷思想と大義名分論が強く結びつき、内なる秩序の引き締めと国家の求心力を高めるための理論として機能したのである。
鎌倉時代における日本への伝来
日本への宋学の伝来は、鎌倉時代初期にさかのぼる。日宋貿易の活発化に伴い、宋へ渡った俊芿(しゅんじょう)や円爾(えんに)などの日本の禅僧が、仏典とともに宋学の書物を持ち帰ったのが始まりとされる。
さらに鎌倉時代中後期には、蘭渓道隆や無学祖元といった中国からの渡来僧が相次いで来日した。彼らは禅宗を広めるとともに、禅僧の不可欠な教養(外典)として宋学の知識を伝えた。当時の宋学は独立した学問というよりも禅宗に付随する形で受容され、京都や鎌倉の五山を中心に広まり、五山版として経典が出版されるなどして日本の知識階級に定着していった。
日本歴史への絶大な影響
鎌倉時代に伝来した宋学の大義名分論は、日本の政治史・思想史において変革と体制維持の双方で絶大な役割を果たした。鎌倉時代末期には、後醍醐天皇やその側近の公家たちが宋学を熱心に学び、これが鎌倉幕府打倒と天皇親政を目指す建武の新政の理論的支柱となった。続く南北朝時代には、北畠親房が『神皇正統記』を著し、大義名分論に基づいて南朝の正統性を力強く主張している。
時代が下り江戸時代に入ると、林羅山らによって宋学は仏教から独立した実践的な学問として確立された。君臣の絶対的な上下関係を説くその教説は、徳川幕府の身分制支配を正当化する御用学問(官学)として公認され、幕藩体制の安定に大きく寄与した。しかし皮肉なことに、江戸時代後期になるとこの大義名分論が天皇を絶対視する尊王論へと転化し、水戸学などに受け継がれて幕末の尊王攘夷運動を推し進める原動力となった。このように宋学は、中世から近代に至る日本の国家観や道徳観を根底から形作った、極めて重要な思想といえる。