女性参政権(婦人参政権)
【概説】
1945(昭和20)年の衆議院議員選挙法改正によって、日本の女性に対して初めて付与された国政における選挙権および被選挙権。戦前から続く長年におよぶ婦人参政権運動の蓄積と、第二次世界大戦後のGHQによる民主化政策を背景として実現した。翌年の総選挙で初めて行使され、39名の女性国会議員が誕生して日本の政治史において大きな転換点となった。
戦前における婦人参政権運動
日本における女性の政治的権利獲得に向けた運動は、大正デモクラシー期に本格化した。1890年に制定された集会及政社法、ならびに1900年制定の治安警察法(第5条)により、長らく女性の政治集会への参加や政治結社への加入は厳しく禁じられていた。しかし、1920年に平塚らいてうや市川房枝らによって新婦人協会が結成されると、女性の政治的自由を求める運動が展開され、1922年には治安警察法第5条2項の改正に成功し、女性の政治集会への参加が解禁された。
その後、1924年に婦人参政権獲得期成同盟会(のちに婦人獲得同盟と改称)が設立されるなど、運動はさらなる高まりを見せた。1925年に制定された普通選挙法が有権者を「満25歳以上の男子」に限定したため、女性への参政権付与を求める声は一層強まったが、1930年代以降、軍部の台頭による戦時体制への移行に伴って自由主義的な市民運動は弾圧され、女性参政権の実現は挫折を余儀なくされた。
敗戦とGHQの民主化指令
1945(昭和20)年8月のポツダム宣言受諾による敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による日本の非軍事化・民主化政策が開始された。同年10月、マッカーサー最高司令官は当時の幣原喜重郎首相に対して、いわゆる「五大改革指令」を口頭で指示した。その第一項目に掲げられていたのが「秘密結社の解放および婦人の解放」であり、具体的には日本の女性に対して国政参加の権利を付与することであった。
この実現は、単に占領軍からの押し付けによるものではない。敗戦のわずか11日後には市川房枝らが「戦後対策婦人委員会」を結成し、日本政府やGHQに対して速やかに女性参政権の付与を要求する運動を再開させていた。長年にわたる戦前の運動の蓄積があってこそ、戦後の急激な民主化の波に即座に呼応することができたのである。
衆議院議員選挙法の改正
GHQの指令と女性活動家たちの要求を受けた幣原内閣のもとで、1945年12月に衆議院議員選挙法が抜本的に改正された。これにより、選挙権の要件はそれまでの「満25歳以上の男子」から「満20歳以上の男女」へ、被選挙権は「満30歳以上の男子」から「満25歳以上の男女」へとそれぞれ引き下げられた。
この画期的な法改正により、財産資格や性別による制限のない完全な普通選挙制度が確立し、日本の歴史上初めて、女性が国政の場における選挙権と被選挙権を同時に獲得することとなった。
初の参政権行使と歴史的意義
法改正を受けて、翌1946(昭和21)年4月10日に戦後初となる第22回衆議院議員総選挙が実施された。この選挙では、約1300万人の女性が有権者として初めて投票所に足を運び、女性の投票率は約67%に達した。結果として79名の女性立候補者の中から39名の女性衆議院議員が誕生し、日本の議会政治にまったく新しい風を吹き込むこととなった。
この女性参政権の実現は、同年11月に公布された日本国憲法における「法の下の平等(第14条)」や「普通選挙の保障・男女平等の選挙権(第15条・第44条)」の精神を先取りし、その基盤を形成するものであった。近代国家としての民主主義を実質的に機能させるための不可欠な一歩であり、日本社会の構造を根本から変革する極めて重要な歴史的意義を持っている。