大船建造の禁 (おおぶねけんぞうのきん)
【概説】
江戸幕府が武家諸法度(寛永令)などにより、500石積以上の大型軍船の建造を禁じた法令。大名が強力な水軍を持つことを防ぎ、幕府の軍事的優位を確立するとともに、鎖国体制を維持する目的があった。幕末のペリー来航による海防への危機感から解除されるまで、日本の造船技術や海運のあり方に多大な影響を与えた。
制定の背景と幕府の軍事統制
戦国時代から江戸時代初期にかけて、西国大名の中には毛利氏や島津氏など、強力な水軍を擁する者が少なくなかった。江戸幕府は自らの権力基盤を確固たるものにするため、大名の軍事力、とりわけ海上における脅威を排除する必要があった。幕府はすでに1609年(慶長14年)に西国大名に対して500石積以上の大船没収を命じていたが、第3代将軍・徳川家光の時代である1635年(寛永12年)、武家諸法度(寛永令)の発布に際して「500石積以上の船の停止」が明文化され、全国の諸大名に適用されることとなった。これにより、安宅船(あたけぶね)に代表される巨大な軍船の建造は厳しく禁じられ、大名の水軍力は著しく削減された。
海禁政策(鎖国)との連動
大船建造の禁は、大名の軍事力統制という側面だけでなく、同時期に幕府が推し進めていた海禁政策(いわゆる鎖国政策)とも密接に結びついていた。外洋航海に耐えうる竜骨や複数マストを持つ大型船の建造を禁じることは、日本人が海外へ渡航することや、密貿易を行うことを物理的に不可能にするための措置であった。キリスト教の流入や、大名が海外勢力と結びついて幕府に反旗を翻すことを防ぐための、技術的な防壁として機能したのである。
和船(弁才船)の発達と国内海運への影響
当初の寛永令では商船に関しても大型船の制限が課されたが、年貢米の輸送など国内物流に支障をきたすため、後に商船については規制が緩和された。しかし、軍事転用を防ぐために構造への制限(竜骨を用いない、単一の帆柱とするなど)は残された。この結果、外洋航海向けの堅牢な船は姿を消したものの、波の穏やかな沿岸航海に適した平底の和船である弁才船(べざいせん)が大きく発達することになる。菱垣廻船や樽廻船、日本海を行き来する北前船などが活躍し、江戸時代の国内海運は独自の進化を遂げて繁栄した。
黒船来航と禁令の解除
200年以上にわたって日本の造船技術を沿岸航海用に縛り付けた大船建造の禁であったが、幕末に大きな転機が訪れる。1853年(嘉永6年)、マシュー・ペリー率いるアメリカの東インド艦隊(黒船)が浦賀に来航し、開国を迫った。圧倒的な西洋の近代海軍力を目の当たりにした幕府首脳(老中・阿部正弘ら)は、従来の法度による海防政策の限界を悟り、同年中に大船建造の禁を解除した。これ以降、幕府や薩摩藩・長州藩などの雄藩は、こぞって西洋式の帆船や蒸気船の建造および海外からの購入に奔走し、近代的な日本海軍の創設へと向かっていくこととなった。