団琢磨 (だんたくま)
【概説】
明治から昭和初期にかけて活躍した実業家であり、三井財閥の総帥として三井合名会社理事長を務めた人物。技術官僚から転身して三池炭鉱の近代化を成し遂げ、日本最大の財閥を率いる指導者となった。昭和恐慌期における財閥批判の標的となり、1932年の血盟団事件において暗殺された。
技術官僚から三井財閥の最高権力者へ
団琢磨は福岡藩士の家に生まれた。1871年に岩倉使節団に同行して渡米し、マサチューセッツ工科大学(MIT)で鉱山学を修めて帰国した。帰国後は官営の三池炭鉱(福岡県)の近代化に従事したが、1889年に同炭鉱が三井に払い下げられたことに伴い、自身も三井へと入社した。アメリカ仕込みの最新技術を活かして三池炭鉱を日本屈指の優良炭鉱へと成長させた実績が評価され、三井財閥の最高指導者であった益田孝の後継者として、1914年に三井合名会社の理事長に就任した。
昭和恐慌と「ドル買い」への世論の猛反発
1929年に発生した世界恐慌と、それに伴う昭和恐慌のさなか、日本の政党政治や資本主義体制への批判が急速に高まった。とりわけ犬養毅内閣による「金輸出再禁止」を予測した三井などの巨大財閥が、巨額の円を売って米ドルを買う行為(ドル買い)を行い、巨万の富を得たことが大きな社会問題となった。この行為は「国難を顧みない利己主義的な暴挙」としてマスメディアや国民から激しく糾弾され、財閥の代表者であった団琢磨に世論の憎悪が集中することとなった。
血盟団事件による暗殺と「財閥の転向」
1932年、日蓮宗の僧侶である井上日召が組織した超国家主義結社「血盟団」によるテロ計画(「一人一殺」)が実行された。同年2月の前大蔵大臣・井上準之助の暗殺に続き、3月5日、団琢磨は日本橋の三井本館玄関前で血盟団員の菱沼五郎によって射殺された。この血盟団事件は、同年の五・一五事件へと続く政党政治崩壊の序曲となった。
団の死後、強い社会的非難にさらされた三井財閥は、社会奉仕事業を行う「三井報恩会」の設立や株式の公開、役員の定年制導入などの改革を余儀なくされた。この一連の動きは「財閥の転向」と呼ばれ、資本主義の抑制と軍部への協調を強める昭和戦時体制への過渡期を象徴する出来事となった。