嘉吉の変(嘉吉の乱) (かきつのへん(かきつのらん)
【概説】
1441(嘉吉元)年、室町幕府第6代将軍足利義教が、有力守護大名である赤松満祐によって自邸で暗殺された事件。「万人恐怖」と呼ばれた義教の苛烈な専制政治に対する反発が招いた未曾有の事態であり、将軍権威の失墜と室町幕府衰退の決定的な契機となった。
「万人恐怖」の将軍専制
くじ引きによって第6代将軍に選出された足利義教は、失墜していた幕府権力の強化と将軍専制の確立を目指した。比叡山延暦寺の弾圧や、鎌倉公方足利持氏の討伐(永享の乱)、それに続く結城合戦などを経て、その権力は絶頂に達していた。しかし、その統治手法は極めて強権的であり、少しでも意に沿わない者は容赦なく処罰・粛清された。一色義貫や土岐持頼といった有力な守護大名すら相次いで誅殺され、公家や民衆に至るまで社会全体を恐怖に陥れた。当時の公家・万里小路時房の日記『建内記』には、義教の政治が「万人恐怖」と記されている。
赤松満祐の危機感と暗殺決行
幕府の要職である四職の一角を占める播磨などの守護・赤松満祐も、義教の専制に対して強い危機感を抱いていた。義教は満祐の弟から所領を没収したうえ、満祐の甥である赤松貞村を寵愛し、赤松氏の家督をすげ替えようとする動きを見せていた。自身の暗殺や討伐を恐れた満祐は、機先を制することを決意する。
1441(嘉吉元)年6月、満祐は結城合戦の祝勝会と称して、義教を京都の自邸に招待した。義教は管領の細川持之や山名宗全ら有力大名を伴って赤松邸を訪れたが、猿楽の宴の最中、突如として赤松氏の武士たちが乱入し、義教の首を刎ねた。現職の将軍が家臣に暗殺されるという、前代未聞の事態であった。
将軍横死による幕府の混乱
義教の暗殺に対し、幕府側は激しく動揺した。義教に同行していた大名たちは、将軍を守るどころか先を争って自邸に逃げ帰り、管領の細川持之ですら保身に走った。赤松満祐はすぐに討伐されることはなく、将軍の首を掲げて悠然と京都を脱出し、領国の播磨へと下った。この幕府の初動の遅れは、強権的な将軍の死に対して大名たちが安堵した結果とも言われており、当時の幕府権力構造の脆弱さを如実に露呈するものであった。
嘉吉の乱の鎮圧と歴史的影響
その後、幕府はわずか8歳の足利義勝を第7代将軍に擁立し、山名宗全(持豊)らを主将とする赤松討伐軍を編成して播磨へ派遣した。同年9月、赤松満祐は城を包囲されて自害し、赤松氏の嫡流は一旦滅亡した(この一連の討伐戦を含めて嘉吉の乱とも呼ぶ)。満祐の旧領は山名宗全らに恩賞として与えられ、これが後に山名氏が強大化し、応仁の乱を引き起こす一因となっていく。
嘉吉の変は、室町幕府の歴史における極めて重要な転換点である。強力な専制体制を敷いた義教の死によって将軍の権威は決定的に失墜し、守護大名の合議制による政治が復活した。また、将軍横死という権力の空白に乗じて、京都周辺では「代始めの徳政」を求める嘉吉の徳政一揆が勃発するなど、社会秩序の動揺が表面化した。幕府の統制力が弱まる中、実力で事態を解決しようとする下剋上の風潮が次第に強まり、やがて戦国時代へと至る歴史の奔流を生み出すこととなったのである。