名請人 (なうけにん)
1582年〜1598年
【概説】
太閤検地によって検地帳に登録され、土地の耕作権を認められると同時に年貢の納入義務を負った農民。中世の複雑な土地所有関係を整理する中で誕生し、近世における本百姓の原型となった。
中世の重層的土地支配からの脱却と「一地一作人」
中世の日本においては、一つの土地に対して複数の階層が重層的に権利を持つ「職の体系(しきのたいけい)」が存在していた。領主、名主(みょうしゅ)、実際に耕作を行う作人(さくにん)などが、それぞれ一つの土地から中間搾取を行う複雑な権利関係を結んでいた。豊臣秀吉は太閤検地を通じてこの古い秩序を否定し、一つの土地(一筆)に対して一人の直接耕作者を決定して登録する「一地一作人の原則」を確立した。このとき、検地帳(名寄帳)に名前を登録(名請)された者が「名請人」である。これにより、それまで名主などの下で隷属的地位に置かれていた小規模な作人が、公的に土地の耕作権を保障された独立した農民として自立することとなった。
名請人の権利・義務と「兵農分離」への影響
名請人は、検地帳に登録されることで領主から耕作権を保障され、中間の権利者による不当な搾取から守られることとなった。しかし、その一方で土地の生産力を米の収穫量に換算した石高(こくだか)に基づき、領主に対して年貢や諸役(国役)を直接かつ確実に納める義務を一体的に負わされた。この名請人を中核として構成されたのが近世の農村(惣村)であり、彼らはのちの江戸時代における「本百姓(ほんびゃくしょう)」へとつながっていく。また、土地と農業に縛り付けられた名請人の存在は、武士を農村から切り離して城下町に集住させる兵農分離を決定づけ、近世の安定した幕藩体制の基盤を形成する上で極めて重要な役割を果たした。