南蛮船

16世紀半ば以降に日本へ来航するようになったポルトガルやスペインの船を、当時の日本人は何と呼んだか?
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南蛮船

16世紀半ば〜17世紀前半

【概説】
室町時代後期から江戸時代初期にかけて日本に来航した、ポルトガルやスペインの貿易船のこと。ヨーロッパの大航海時代を背景に東アジア海域へ進出し、鉄砲やキリスト教をもたらして日本の政治・経済・文化に多大な影響を与えた。

大航海時代と南蛮船の東アジア進出

15世紀末から始まったヨーロッパの大航海時代を背景に、16世紀に入るとポルトガルやスペイン(イスパニア)が東アジア海域へ本格的に進出してきた。当時の日本人は、中国や東南アジアに対する伝統的な呼称であった「南蛮」を転用し、マカオやフィリピンなどの東南アジア拠点を経由して来航するこれらのヨーロッパ人を「南蛮人」、彼らが乗るカラック船やガレオン船などの大型帆船を「南蛮船」と呼んだ。

ポルトガル船とスペイン船の来航

日本に初めて到来した南蛮人は、1543年(天文12年)に種子島に漂着した中国のジャンク船に乗っていたポルトガル人であるとされる。これにより日本に鉄砲が伝来した。その後、1550年にはポルトガル船が平戸に来航し、やがて大村純忠が開港した長崎が最大の貿易拠点となっていった。一方、スペインはフィリピンのマニラを拠点としており、1584年に平戸に来航したのが日本との直接的な交易の始まりである。ポルトガル船の来航がマカオを拠点とする定期的なものであったのに対し、スペイン船はマニラとメキシコ(アカプルコ)を結ぶ太平洋航路の途上で寄港するケースが多かった。

南蛮貿易とキリスト教の伝来

南蛮船との間で行われた南蛮貿易において、日本は中国産の生糸や絹織物、東南アジアの香辛料、さらには鉄砲や火薬、ガラス製品、時計といったヨーロッパの珍しい文物を輸入し、見返りとして日本産のを大量に輸出した。当時の日本は世界有数の銀産出国であり、南蛮船の主な目的はこの日本の銀を獲得し、アジアでの交易網に投資することであった。

また、南蛮船の来航はカトリック宣教師の渡来と表裏一体であった。1549年にフランシスコ・ザビエルがキリスト教を伝えて以降、イエズス会やフランシスコ会などの宣教師が南蛮船に乗って次々と来日した。戦国大名たちは貿易がもたらす莫大な利益や軍需物資(鉄砲・火薬)を求めて南蛮船を積極的に誘致し、中にはキリスト教の洗礼を受けてキリシタン大名となる者も現れた。このように、南蛮船は単なる物資の輸送手段にとどまらず、西洋の宗教や文化を運ぶ媒体として、日本の社会に計り知れない衝撃を与えたのである。

幕府の統制強化と南蛮船来航の終焉

南蛮船がもたらす富は時の権力者にとっても魅力的であったが、同時にキリスト教の布教がもたらす思想的影響や、キリシタン大名と宣教師の結びつきによる領土的野心への危惧は、次第に警戒の対象となっていった。豊臣秀吉は1587年にバテレン追放令を出して布教と貿易を分離する姿勢を示したが、南蛮貿易自体は重んじて奨励し続けた。

しかし、江戸幕府を開いた徳川家康以降、幕藩体制を揺るがす恐れのあるキリスト教への弾圧は徐々に強まった。幕府は貿易の利益を独占するため統制を強化し、1624年にまずスペイン船の来航を禁止した。さらに、島原の乱(1637〜1638年)を経てキリスト教への警戒が決定的なものとなると、1639年(寛永16年)にポルトガル船の来航も全面的に禁止された。これにより、約1世紀にわたる南蛮船来航の歴史は幕を閉じ、日本はいわゆる鎖国体制の完成へと向かうこととなったのである。

大航海時代の創始者 航海者エンリケ

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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