北海道庁
【概説】
1886(明治19)年、開拓使廃止後の北海道において、行政と開拓を統一的に推進するために設置された中央直轄の官庁。それまでの札幌・函館・根室の「三県」および農商務省北海道事業管理局の「一局」を廃止・統合し、強力な権限のもとで北海道のインフラ整備や対露防備を主導した。
三県一局体制の破綻と北海道庁の設置
明治政府は、1869(明治2)年に設置した開拓使による10年間の開発計画が満期を迎えた後、1882(明治15)年に同使を廃止した。これに伴い、北海道は札幌県・函館県・根室県の3県に分割され、開拓実務は農商務省管轄の北海道事業管理局が担うという「三県一局体制」へと移行した。しかし、この体制は広大な北海道において行政の不統一や二重行政による経費の膨張を招き、開拓事業の著しい停滞をもたらした。
さらに、当時の東アジア情勢において、ロシア帝国の南下政策に対する北辺の防備強化(国防上の要請)が急速に高まっていた。こうした内外の課題を打開するため、内閣制度が創設された直後の1886(明治19)年1月、参事院議官・金子堅太郎の復命書などの提言を受け、三県一局を廃止・統合した北海道庁が札幌に新設されることとなった。これにより、内務省の直接の管轄下で、北海道の行政と拓殖(開拓と殖産興業)が一元化された。
初代長官・岩村通俊と過酷なインフラ開発
北海道庁の初代長官には、かつて開拓使で開拓判官を務めた岩村通俊(いわむらみちとし)が就任した。岩村は「道庁」という強力な中央集権的組織の特性を活かし、それまでの消極的な拓殖方針を大転換させ、大規模な基盤整備を断行した。特に、本州からの移民の定着や軍事交通網の確保を目的に、幹線道路の開削や鉄道の敷設に力を注いだ。
この時期の大規模な開発を支えたのが、樺戸(かばと)・空知(そらち)・釧路(くしろ)などの集治監(監獄)に収容された囚人たちであった。囚人労働は、きわめて過酷な環境下で低賃金かつ強制的に動員され、上川道路をはじめとする北海道の基盤道路網の建設において多大な犠牲を払うこととなった。同時に、士族授産と対露防備を兼ねた屯田兵制度の強化も図られ、近代北海道の骨格が急速に形作られていった。
「官治」の継続と地方自治への移行
北海道庁は、天皇によって任命される長官に広範な権限が与えられた、極めて「官治」的色彩の強い行政機関であった。これは、防備の強化と資源開発という国家の軍指示・経済的目的が最優先されたためである。このため、本州の諸府県に導入された地方自治制度(府県制・郡制など)の適用は大幅に遅れることとなった。
1901(明治34)年にようやく、制限された地方議会である「北海道会」が設置され、独自の地方税を財源とする「北海道地方費」が成立したが、本州並みの地方自治が完全に認められたわけではなかった。北海道が本格的な地方自治の主体となり、官治の北海道庁が解体されるのは、第二次世界大戦後の1947(昭和22)年の地方自治法施行まで待たねばならなかった。この法改正により、従来の北海道庁は廃止され、知事を公選とする地方自治体としての現在の「北海道(道庁)」へと生まれ変わることとなった。