北条氏政 (ほうじょううじまさ)
【概説】
戦国大名である後北条氏(小田原北条氏)の第4代当主。父・氏康とともに優れた手腕を発揮し、関東地方に一族史上最大の版図を築き上げた。しかし、豊臣秀吉の「惣無事令」に反したとして小田原征伐を招き、徹底抗戦の末に敗北して切腹を遂げ、関東における後北条氏の支配は終焉を迎えた。
関東覇権の確立と領国最大版図の実現
北条氏政は、戦国屈指の名将と称される第3代当主・北条氏康の嫡男として生まれた。永禄2年(1559年)に家督を継承したが、元亀2年(1571年)に氏康が没するまでは、父との共同統治(二頭政治)の形をとった。この間、上杉謙信や武田信玄といった強力な隣国大名の侵攻を受けながらも、堅牢な小田原城を中心とする防衛網と、外交的な駆け引きによってこれをしのぎ切った。
氏康の没後は自立的な外交を展開し、一度は破綻した武田氏との甲相同盟を復活させるなどして後顧の憂いを断った。天正10年(1582年)の本能寺の変によって織田信長が横死すると、織田領となった甲斐・信濃をめぐる「天正壬午の乱」で徳川家康と対立。のちに家康と和睦して娘を次男の氏直(第5代当主)に迎えることで、北関東への進出を本格化させた。これにより、後北条氏は関八州(関東地方)のほぼ全域におよぶ約240万石とも言われる最大版図を築き上げ、全盛期を迎えた。
豊臣政権との衝突と「小田原征伐」
中央で実権を握り、関白となった豊臣秀吉は、全国の大名に対して私戦を禁じる惣無事令を発令した。これに対し、関東という独立した「国家」としての自負を持っていた北条氏は、秀吉の朝廷権力を背景とした天下統一の動きに反発した。氏政は隠居して息子の氏直に家督を譲っていたものの、依然として実権を握り、秀吉への恭順姿勢を明確にしなかった。
こうした中、真田氏との沼田領をめぐる紛争において、氏政の家臣である猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を武力で奪取する事件(名胡桃城事件)が発生する。これが秀吉の惣無事令に明確に違反したとみなされ、天正18年(1590年)、秀吉は全国の大名を動員した小田原征伐へと踏み切った。秀吉は20万を超える圧倒的な大軍を組織し、水陸両面から小田原城を完全包囲した。
北条氏政の切腹と戦国時代の終焉
氏政は、かつて上杉軍や武田軍を退けた小田原城の堅固さに頼り、籠城戦を選択した。しかし、秀吉は無理な攻城を行わず、周囲に一夜城(石垣山一夜城)を築き、軍資金や兵糧の補給路を完全に断つ「干殺し」戦法をとった。さらに、期待していた東国大名の伊達政宗が秀吉に服属したことで、北条氏の孤立は決定的となった。
約3ヶ月に及ぶ籠城の末(この合戦中の煮え切らない軍議が「小田原評定」の語源となったとされる)、氏直はこれ以上の抗戦は不可能と判断し、自身の命と引き換えに城兵の助命を請うて降伏した。秀吉は氏直が家康の娘婿であったことから高野山への追放にとどめたが、主戦派の責任者として、前当主である氏政およびその弟・氏照らに切腹を命じた。これにより、初代早雲から5代、約100年にわたって関東に君臨した大名・後北条氏は滅亡し、秀吉による天下統一が完成した。氏政の死は、中世的な「東国独立国家」が、近世的な「超広域統一政権」に屈した歴史的転換点でもあった。