加藤友三郎内閣

高校日本史的重要度
★★

加藤友三郎内閣

1922〜1923年

【概説】
大正デモクラシー期の1922(大正11)年6月に成立した、海軍大将の加藤友三郎を首相とする内閣。ワシントン会議の日本全権であった加藤自身が首相となることで、国際的な軍縮潮流を受け入れ、ワシントン体制への協調外交を展開した。シベリア出兵からの完全撤退や、陸海軍の軍縮を断行したことで知られる。

ワシントン体制の受容と対外協調外交

立憲政友会を率いた高橋是清内閣が閣内不統一で総辞職したのち、元老の推薦によって後継に指名されたのが、当時海軍大臣であった加藤友三郎であった。加藤は1921(大正10)年から開催されたワシントン会議に首席全権として出席し、対米英協調路線の確立に尽力した人物である。

加藤友三郎内閣の最優先課題は、ワシントン会議で結ばれた諸条約の批准と履行、すなわち「ワシントン体制」への順応であった。内閣は速やかにワシントン海軍軍縮条約を批准し、さらには第一次世界大戦以来続いていたシベリア出兵からの完全撤退(1922年10月)を完了させた。これにより、国際的な不信感を払拭し、対外的な協調関係を構築することに成功した。

「山梨軍縮」と海軍軍縮の断行

加藤内閣は、第一次世界大戦後の戦後恐慌に対応するため、緊縮財政と軍事費の削減を断行した。海軍においては、主力艦の建造を中止するなどの整理を行い、長年推進されてきた「八八艦隊計画」を事実上放棄した。首相自身が海軍の重鎮であったからこそ、軍内部の反発を最小限に抑えて軍縮を進めることが可能であった。

また、陸軍に対しても陸相の山梨半造を中心に、二度にわたる兵力削減(山梨軍縮)を行わせた。これにより将兵約5万人が整理され、軍事費の抑制と国家財政の健全化が図られた。この陸海軍にわたる軍縮は、当時の大正デモクラシー期における民衆の非軍国主義的世論とも合致するものであった。

「中間内閣」としての政治的性格と突然の終焉

加藤友三郎内閣は、政党の総裁が首相となる「憲政の常道」からは外れた実務型の非政党内閣(中間内閣・超然内閣)であった。しかし、衆議院の第一党であった立憲政友会から閣外協力を得ることで、議会運営を安定させていた点が特徴である。

軍縮や協調外交において確かな成果を上げつつあった加藤内閣であったが、1923(大正12)年8月24日、加藤首相が病(大腸がん)により急逝したことで、突如として終焉を迎えた。内閣は総辞職し、外相の内田康哉が臨時管理人となった。そのわずか1週間後の9月1日、日本を関東大震災が襲うこととなり、未曾有の国難の中で政治の舵取りは第2次山本権兵衛内閣へと引き継がれていくこととなった。

最終更新:
2026年6月16日 @ 07:41

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