今井宗久 (いまいそうきゅう)
【概説】
戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した、和泉国堺の豪商であり茶人。織田信長や豊臣秀吉の茶頭(さどう)を務め、千利休(宗易)、津田宗及とともに「天下三宗匠」と称された。軍事と茶の湯を結びつけた織豊政権の政治交渉において、仲介者として重要な役割を果たした政商である。
織田信長への接近と政商としての台頭
大和国(現在の奈良県)の武士の出自とされる今井宗久は、堺の有力な商人であった武野紹鴎に師事して茶の湯を学び、その娘婿(または養子)となって堺の商業界で頭角を現した。当時は「納屋(なや)」の屋号で知られ、皮革や鉄砲、火薬などの軍需物資を扱う商人として巨万の富を築いた。
宗久の歴史的転機となったのは、1568(永禄11)年の織田信長の上洛である。信長が堺に対して2万貫もの矢銭(軍資金)を要求した際、堺の自治組織である会合衆の多くは激しく抵抗したが、宗久はいち早く信長への恭順を主張した。宗久は名物として高名であった茶器「松島の葉茶壺」や「薬子の釜」を信長に献上してその信任を得ることに成功する。これにより信長から堺の代官に任じられたほか、淀川の通行税免除や但馬生野銀山の管理権、鉄砲用火薬の原料である硝石の専売権などを獲得し、織田政権下における最大の政商としての地位を確立した。
名物狩りと「御茶湯御政道」における役割
信長は茶の湯の政治的価値に着目し、有力者から名茶器を強制的に買い上げる「名物狩り」や、限られた家臣にのみ茶会開催を許可する御茶湯御政道(おちゃのゆごせいどう)を展開した。宗久はこの政策において、千利休や津田宗及とともに信長に仕える茶頭(茶の湯の師匠)に抜擢され、茶会を通じて大名間の政治工作や懐柔をサポートした。
1582(天正10)年の本能寺の変による信長の横死後は、天下人となった豊臣秀吉にも引き続き仕え、1587(天正15)年の北野大茶湯などでも重要な役割を果たした。しかし、秀吉の政権下では次第に千利休が政治・文化の両面で絶対的な信頼を獲得するようになり、宗久の影響力は相対的に低下していった。それでも、文化(茶の湯)と経済(商業・軍需品)を媒介にして戦国大名に肉薄し、中央政治の意思決定に深く関わった今井宗久の生涯は、安土桃山時代における特異な豪商・文化人のあり方を象徴している。