九条(藤原)兼実

源頼朝の政治的支援を受けて摂政・関白に就任し、親幕府派の公卿として朝廷を主導した人物は誰か?
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重要度
★★★

九条(藤原)兼実 (くじょう(ふじわら)かねざね)

1149〜1207

【概説】
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍し、五摂家の一つである九条家の始祖となった公卿。源頼朝の強力な政治的支援を背景に摂政・関白に就任して朝廷の最高権力者となり、鎌倉幕府の成立と朝武関係の構築に深く関与した。また、彼が残した日記『玉葉(ぎょくよう)』は、源平争乱から鎌倉幕府草創期に至る激動の時代を克明に記した第一級史料として極めて高い価値を持つ。

激動の時代と九条家の創設

九条(藤原)兼実は、関白・藤原忠通の三男として生まれた。異母兄に近衛基実や松殿基房、同母弟に『愚管抄』の著者として知られる天台座主の慈円がいる。兼実が政界に足を踏み入れた時期は、保元・平治の乱を経て平氏政権が台頭し、さらには源平の争乱へと突き進む激動の時代であった。

兼実は後白河法皇や平清盛といった当時の権力者とは一定の距離を置き、公家社会の伝統や有職故実を重んじる保守的で謹厳な態度を貫いた。この時期、摂関家の嫡流をめぐって兄たちとの間で複雑な対立があったが、兼実は京都の九条に邸宅を構え、後に五摂家の一つとなる九条家の始祖となった。

源頼朝との提携と朝廷の実権掌握

兼実の政治的地位を決定づけたのは、東国で挙兵し平氏を滅ぼした源頼朝との結びつきである。頼朝は、朝廷内の親鎌倉派を育成して武家政権の公的承認を得ようと画策しており、名門の出身でありながら後白河法皇の院政下で不遇をかこっていた兼実に目を付けた。一方の兼実も、朝廷における実権を掌握するために頼朝の強大な軍事力を必要としていた。

1185年(文治元年)、平氏滅亡と源義経の没落後、頼朝の強力な推挙を受けた兼実には内覧の宣旨が下され、翌1186年には摂政、藤氏長者に就任した。これにより兼実は朝廷の最高権力者となり、頼朝の意向を汲みつつ、戦乱で疲弊した朝廷の儀式や秩序の再建に尽力した。1192年(建久3年)、後白河法皇が崩御すると、兼実は頼朝が熱望していた征夷大将軍の宣下を主導し、名実ともに鎌倉幕府の成立を後押しすることとなった。この兼実と頼朝の強固な提携は、公家と武家が協調して国家を運営する公武協調体制の基礎を築いたといえる。

建久七年の政変と失脚

しかし、兼実の権勢は長くは続かなかった。後白河法皇の死後、朝廷内では反兼実派の勢力が徐々に台頭してきた。その筆頭が、策謀家として知られる源(土御門)通親である。通親は後鳥羽天皇の側近として暗躍し、兼実の娘である中宮・任子が皇子を出産できず内親王(のちの昇子内親王)を生んだことにつけこみ、兼実排斥の陰謀を巡らせた。

さらに、頼朝自身も自らの娘・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく朝廷工作を進めており、娘を中宮としている兼実の存在が次第に障害となりつつあった。こうした複雑な政治力学の中で頼朝からの支援も弱まり、1196年(建久7年)、いわゆる建久七年の政変によって兼実は関白を罷免され、失脚を余儀なくされた。これにより、九条家は一時的に衰退し、通親が朝廷の実権を握ることとなる。

第一級史料『玉葉』と文化的・宗教的功績

政治家としての活躍の一方で、兼実が後世に残した最大の遺産が、16歳から52歳までの長きにわたって書き綴った日記『玉葉』である。この日記には、治承・寿永の乱(源平合戦)の動向や、鎌倉幕府の成立過程における頼朝との政治的交渉、さらには当時の朝廷の儀式や貴族社会の裏側が詳細かつ客観的に記録されている。同時代の公家の日記の中でも史料的価値は群を抜いており、平安末期から鎌倉初期の歴史を研究する上で欠かすことのできない根本史料となっている。

また、兼実は信仰心に篤い人物でもあった。弟の慈円の紹介もあって専修念仏を唱える法然に深く帰依し、法然の主著『選択本願念仏集』は兼実の要請によって執筆されたものである。政治の表舞台から退いた後は出家して円証と号し、初期浄土宗の有力な庇護者として晩年を静かに過ごした。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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