シーボルト
【概説】
江戸時代後期に来日したドイツ出身の医師・博物学者。長崎の出島にオランダ商館医として滞在して鳴滝塾を開き、日本の青年に最先端の西洋医学や蘭学を教えた。帰国時に国禁の品を持ち出そうとした「シーボルト事件」を引き起こしたことでも知られ、ヨーロッパにおける日本学の確立に多大な貢献を果たした。
オランダ商館医としての来日と鳴滝塾の開設
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、ドイツのヴュルツブルクで代々医学教授を務める名門の家系に生まれた。彼は医学のみならず地理学や博物学にも強い関心を持っており、未知の国であった日本の総合的な研究を志した。当時、日本と交易を行っていたヨーロッパの国はオランダのみであったため、彼はオランダ領東インド陸軍の外科少佐という身分を得て、1823(文政6)年に長崎の出島へオランダ商館医として赴任した。生粋のオランダ人ではなかった彼は、そのオランダ語の訛りを日本の通詞(通訳)に怪しまれた際、「自分は高山国(山の多い地方)の出身だから訛っているのだ」と機転を利かせてごまかしたという逸話が残っている。
長崎奉行から特別な許可を得たシーボルトは、出島郊外に鳴滝塾(なるたきじゅく)を開設した。全国から集まった向学心あふれる青年たちに対し、彼は最新の西洋医学(臨床医学)や博物学を教授した。この塾からは、後に蘭学者として活躍する高野長英や小関三英、幕府の奥医師となる伊東玄朴、植物学者の伊藤圭介など、日本の近代化を牽引する優秀な人材が数多く輩出された。
総合的な日本研究と西洋への紹介
シーボルトにとって、鳴滝塾は単なる教育の場にとどまらず、自身の日本研究のための優れた「情報収集機関」でもあった。彼は門人たちに対し、日本の歴史、地理、風俗、動植物などに関する様々なテーマを与え、それをオランダ語で論文として提出させた。また、患者の治療代を受け取らない代わりに、珍しい動植物の標本や民具、美術品などを提供させ、膨大なコレクションを築き上げていった。
帰国後に彼が著した大著『日本』や『日本動物誌』『日本植物誌』は、これらの緻密なデータに基づいて編纂されたものである。これによって、鎖国下にあった日本の詳細な姿がヨーロッパに初めて体系的に紹介され、シーボルトは西欧における日本学(ジャパノロジー)の祖として高く評価されることとなった。後年、アメリカのペリー艦隊が日本に来航する際にも、彼の著作が最も信頼できる基礎資料として熟読されていたことは、歴史的に極めて重要である。
シーボルト事件の勃発と国外追放
1828(文政11)年、オランダへの帰国を目前に控えたシーボルトを乗せた船が、暴風雨によって座礁するという事故が起こった。その積み荷の修理・点検の過程で、海外への持ち出しが固く禁じられていた日本地図(伊能忠敬が作成した「大日本沿海輿地全図」の縮図)や、葵の御紋が入った衣服などが発見された。これが世にいうシーボルト事件である。
当時、幕府は異国船打払令(1825年)を発布するなど、接近する欧米列強に対して強い警戒感と危機感を抱いていた時期であった。そのため、国防上の最高機密である精巧な日本地図が外国人の手に渡ったことは幕府を震撼させ、関係者は厳しく探索された。地図を贈っていた幕府の天文方・高橋景保(たかはしかげやす)は投獄されて獄死し、その他の関係者も重罰に処された。シーボルト自身も約1年間の厳しい尋問を受けた後、1829年に日本からの永久追放(国外追放)の処分を受けた。
再来日と幕末期の活動
追放処分から約30年後の1858(安政5)年、日蘭和親条約の締結に伴ってシーボルトの追放令は解除された。翌1859年、彼は長男のアレクサンダーを伴って63歳で再来日を果たした。かつての門人たちと感動的な再会を果たした彼は、幕府の外交顧問に就任し、欧米諸国との外交交渉に関する助言を行ったり、西洋の学術の指導にあたったりした。しかし、彼の親身な助言はかえって諸外国の反感を買うこととなり、また幕府内部の対立にも巻き込まれ、最終的には顧問を辞して1862年に帰国した。
なお、最初の滞在時に彼が長崎で愛した日本人女性・楠本滝(お滝)との間に生まれた娘の楠本イネは、父と同じ医学の道を志し、二宮敬作ら父の高弟たちの支援を受けながら、後に日本人女性で初となる西洋医学の産科医として活躍した。シーボルトの足跡は、医学や博物学の発展、そして日欧の文化交流において、日本の近代史に深く刻み込まれている。