破壊活動防止法(破防法) (はかいかつどうぼうしほう)
【概説】
血のメーデー事件などの社会運動の激化を契機として、1952年に制定された暴力主義的破壊活動を行う団体を規制・解散させるための法律。戦前の治安維持法との類似性から「治安維持法の再来」として激しい反対運動を巻き起こした。現在においても公安調査庁の活動根拠法として機能し、国家治安と基本的人権の緊張関係を象徴する法律である。
制定の背景:主権回復直後の政情不安と「血のメーデー事件」
1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約の発効によって日本は主権を回復した。しかし、同時に締結された日米安全保障条約によって、日本は冷戦下におけるアメリカの極東戦略に取り込まれることとなった。これに対する労働者や学生、革新勢力の不満は高まっており、社会不安が渦巻いていた。主権回復直後の5月1日、東京の皇居前広場(当時は人民広場と呼ばれた)で「血のメーデー事件」が発生する。デモ隊と警察治安部隊が激しく衝突し、死傷者を多数出す惨事となった。
第3次吉田茂内閣および保守勢力は、この事件を共産主義分子による組織的な暴力破壊活動と捉え、戦前の「治安維持法」に代わる強力な治安立法を急いだ。こうして、暴力主義的破壊活動を効果的に規制することを目的とした「破壊活動防止法(破防法)」の法案が国会に提出された。
法案をめぐる国論の二分と反対運動
破防法案が国会に提出されると、日本社会党や日本共産党などの野党、労働組合の全国組織である総評(日本労働組合総評議会)、さらには知識人やジャーナリズムから猛烈な反対運動が巻き起こった。反対派が最も懸念したのは、同法が日本国憲法の保障する「言論の自由」や「結社の自由」といった基本的人権を侵害し、再び戦前のような暗黒政治に逆戻りするのではないかという点であった。
全国で大規模なストライキや抗議デモが展開され、国会周辺は連日緊迫した状況に置かれた。しかし、政府・与党は一部の修正案を受け入れる形で、1952年7月に法案を可決・成立させた。これと同時に、団体の規制や調査を行うための実務機関として公安調査庁が、また処分の妥当性を審査する独立機関として公安審査委員会が設置された。
破防法の特質と現代における運用
破壊活動防止法は、特定の団体が将来にわたって暴力主義的破壊活動(内乱や放火、内乱のせん動など)を行う明らかな危険性がある場合、その団体の活動を制限し、最悪の場合は解散処分を科すことができると定めている。しかし、濫用の危険性が極めて高いため、適用には厳格な要件が必要とされ、これまでに同法が適用されて解散指定に至った団体は一件も存在しない。
最大の転機となったのは、1995年(平成7年)に発生した地下鉄サリン事件である。一連の凶悪テロ事件を起こした宗教法人オウム真理教(現・アレフなど)に対し、公安調査庁は初の「解散指定」処分を請求した。しかし、1997年(平成9年)、公安審査委員会は「将来の危険性」が組織の弱体化などによって立証不十分であるとして、この請求を棄却した。現在も破防法は廃止されることなく残されており、治安維持の観点と憲法が保障する人権とのバランスをどう保つかという現代的な課題を提起し続けている。