血のメーデー事件 (ちのめーでーじけん)
【概説】
サンフランシスコ平和条約発効直後の1952年5月1日、使用が禁止されていた皇居前広場(宮城前広場)にデモ隊が乱入し、警察部隊と激突した騒乱事件。戦後の占領期から独立回復期へと移行する過渡期において、高まる反米・反戦世論と国家権力の治安維持機能が正面から衝突した、昭和史における象徴的な事件である。
占領終結と「宮城前広場」をめぐる対立
1952年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、日本は連合国軍の占領下から脱して主権を回復した。しかし、同時に日米安全保障条約も発効したことで米軍の駐留は継続され、当時進行中であった朝鮮戦争の影もあり、国内では親米・保守政権に対する反発や、全面講和を求める革新勢力・労働者・学生による反米・反戦運動が激化していた。
このような情勢下で迎えた5月1日のメーデーにおいて、実行委員会は戦後に「人民広場」として様々な労働運動・政治集会に利用されていた皇居前広場(宮城前広場)の使用を申請した。しかし、治安の混乱を恐れた吉田茂内閣および東京都は、この申請を不許可処分とした。この決定は、主権回復を機に集会・結社の自由を誇示しようとする労働者や学生らにとって、政府による弾圧の予兆と受け止められ、激しい反発を生むこととなった。
警察隊との衝突と凄惨な被害
当日、明治神宮外苑など都内数カ所で分散して行われたメーデー大会ののち、一部の労働者や全日本学生自治会総連合(全学連)、在日朝鮮人、および当時武装闘争方針を掲げていた日本共産党系の活動家を含むデモ隊が、立ち入り禁止とされていた皇居前広場を目指して行進を開始した。
デモ隊は警戒線を突破して広場になだれ込み、プラカードや棍棒を手に「人民広場の奪還」を叫んだ。これに対し、警視庁はこれを違法集会とみなして強力な鎮圧部隊を投入。警察側は催涙弾(ガス弾)を多用したほか、デモ隊の一部が暴徒化して米国検疫所や米軍車両を襲撃・放火したことに対し、警棒や拳銃による実弾射撃で応じた。結果として、デモ隊側に2名の死者(うち1名は大学生)を出し、双方で約2300人におよぶ重軽傷者を出すという、戦後民主主義史上で極めて凄惨な衝突事件に発展した。
「逆コース」の加速と左翼運動への打撃
この事件は、日本社会と当時の政治に決定的な影響を与えた。保守政権や世論の一部には、過激化する左翼運動や共産主義に対する強い恐怖感と嫌悪感が植え付けられることとなった。政府はこの混乱を契機として、かねてより準備を進めていた破壊活動防止法(破防法)の制定(1952年7月可決)を一気に推し進め、公安調査庁を新設するなど、治安維持・監視体制を大幅に強化した。これは占領期の改革を逆行させる、いわゆる「逆コース」を決定づける象徴的な出来事となった。
一方で、白昼の都心で繰り広げられた暴力的闘争は一般市民の支持を得られず、過激な武装闘争方針をとっていた日本共産党や急進的な学生運動は孤立を深めることとなった。結果として、血のメーデー事件は戦後の大衆運動における「暴力闘争」の限界を示す転換点となり、その後の運動方針の転換や組織の再編を余儀なくさせる契機となった。