保安隊

1952年、警察予備隊が改組され、人員や装備が拡充されて発足した組織(のちの陸上自衛隊)は何か?
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【参考リンク】
保安隊(Wikipedia)

保安隊

1952年〜1954年

【概説】
1952(昭和27)年、警察予備隊を改組・拡充して発足した、より本格的な装備を持つ治安維持組織。主権回復に伴う国内治安の維持を主目的として創設されたが、実質的な再軍備の過程に位置づけられ、現在の陸上自衛隊の前身となった。

サンフランシスコ体制の成立と保安庁の設置

1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争を契機として創設された警察予備隊は、国内の治安維持を名目としつつも、実質的には在日米軍が朝鮮半島へ出撃した後の軍事的空白を埋めるために急造された組織であった。その後、1951(昭和26)年にサンフランシスコ平和条約および日米安全保障条約が締結され、日本の主権回復が目前に迫ると、独立国として自らを防衛する体制の構築が急務となった。

アメリカは日本に対して更なる防衛力の増強を強く求めており、第3次吉田茂内閣はこれに応える形で防衛機構の整備に着手した。1952年4月28日の平和条約発効(主権回復)を経て、同年7月に保安庁法が成立し、総理府の外局として保安庁が新設されることとなった。この保安庁の下で、陸上部隊である警察予備隊と、海上部隊である海上警備隊を一元的に管理・運用する体制が整えられたのである。

警察予備隊からの改組と装備の重武装化

1952年10月15日、警察予備隊は正式に保安隊へと改組された。同時に海上警備隊も警備隊へと改称された。保安隊の任務は「国の治安を維持するため、特別の必要がある場合において行動し、あわせてこれに伴う事項を行うこと」とされ、警察力では対処しきれない大規模な内乱や騒擾(そうじょう)への対処が主眼に置かれた。あくまで名目上は「警察力の延長」であったが、その実態は軍隊としての色彩を急速に強めていた。

定員は警察予備隊時代の7万5000人から11万人へと大幅に拡充された。さらに特筆すべきは装備の重武装化である。アメリカからの無償貸与により、小銃や機関銃にとどまらず、火砲(大砲)や装甲車、さらには戦車や軽航空機までが導入された。しかし、日本国憲法第9条が禁じる「戦力」に該当するという野党の批判をかわすため、政府は戦車を「特車」、迫撃砲を「特科火砲」と呼称するなど、軍隊用語を避ける苦肉の策をとった。吉田内閣は「保安隊は近代戦を遂行する装備と編成を持たないため、憲法の禁ずる戦力にはあたらない」という答弁を繰り返し、これを「戦力なき軍隊」として正当化した。

MSA協定の締結と自衛隊への発展

保安隊の発足後も、冷戦の激化を背景としたアメリカからの再軍備要求は止まらなかった。1953(昭和28)年に行われた池田・ロバートソン会談において、アメリカは日本に防衛力のさらなる増強を強く要求した。その結果、1954(昭和29)年3月に日米間でMSA協定(日米相互防衛援助協定)が調印された。この協定により、日本はアメリカから経済的・軍事的な援助を受ける見返りとして、自国の防衛力を自発的に増強する義務を負うこととなった。

MSA協定の締結に伴い、政府は国内の防衛体制を抜本的に見直す必要に迫られた。これまでの「国内治安の維持」を主目的とする保安隊の枠組みを超え、外国からの「直接侵略に対する防衛」を本来の任務とする新組織の創設が決定されたのである。1954年6月、防衛庁設置法および自衛隊法(いわゆる防衛二法)が成立し、同年7月1日に保安隊は陸上自衛隊へと発展的解消を遂げた。

保安隊が存在した期間はわずか1年9ヶ月に過ぎないが、警察の延長線上であった警察予備隊から、明確に国土防衛を任務とする自衛隊へと移行する過程において、日本の再軍備と戦後の安全保障体制を決定づける極めて重要な過渡的組織であったといえる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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