三国協商
【概説】
イギリス、フランス、ロシアの間で形成された、ドイツを中心とする三国同盟に対抗するための外交的・軍事的な協力体制。1907年の英露協商締結によって完成し、第一次世界大戦において日本を含む連合国陣営が形成される国際的な基盤となった。
三国協商成立の背景と過程
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパの国際関係は帝国主義的な領土分割や市場争奪を背景に緊迫化していた。とくにドイツ帝国がヴィルヘルム2世の下で積極的な「世界政策」を展開し、海軍力の増強や中東への進出(3B政策)を図ると、これに脅威を覚えた周辺列強は関係修復に動き出した。
まず、ドイツのビスマルク体制崩壊により孤立していたフランスとロシアが接近し、1891年から1894年にかけて露仏同盟が成立した。続いて、伝統的に「光栄ある孤立」を維持していたイギリスも、ドイツの建艦競争に対抗するため、1904年にフランスとの間でアフリカにおける権益を調整する英仏協商を結んだ。最終的に、1907年にイギリスとロシアがイランやアフガニスタンなどでの勢力圏を確定する英露協商を締結したことで、ドイツ陣営を包囲する三国協商体制が完成したのである。
日露戦争の影響と日本の「協商」陣営への参加
この三国協商の成立には、日本が戦った日露戦争(1904〜1905年)が決定的な役割を果たしている。ロシアの極東進出が日本によって阻まれたことで、ロシアの南下政策の矛先は再びバルカン半島へと向けられ、極東や中央アジアにおける英露の長年の対立が緩和された。これが英露協商締結への最大の推進力となったのである。
一方、日本外交もこのヨーロッパの再編と無縁ではなかった。日本は1902年締結の日英同盟を外交の基軸としていたが、これに加えて1907年にはフランスとの間で日仏協約を、さらにはかつての敵国であったロシアとの間で第1回日露協約を締結した。これにより、日本は事実上三国協商の巨大な包囲網に組み込まれることとなり、列強間の対立構造の中で明確な立ち位置を確保することとなった。
第一次世界大戦の勃発と協商体制の終焉
三国協商の成立により、ヨーロッパは協商国と、ドイツ・オーストリア・イタリアによる三国同盟という二大陣営に二分された。両陣営はモロッコ事件やバルカン半島の覇権をめぐって度々衝突し、1914年のサライェヴォ事件を引き金として大正時代の日本をも巻き込む第一次世界大戦が勃発した。
大戦が始まると、協商国側は「連合国」として共闘し、日本も日英同盟を理由に参戦してドイツの租借地であった中国・山東省の青島や南洋諸島を占領した。しかし、大戦末期の1917年にロシア革命が勃発してロシア帝国が崩壊すると、新たに成立したソヴィエト政権は連合国陣営を離脱してドイツと単独講和(ブレスト・リトフスク条約)を結んだ。これにより、約10年間続いた三国協商は事実上消滅することとなった。