第一次世界大戦
【概説】
1914年のサライェヴォ事件を機に勃発し、ヨーロッパを中心に同盟国と協商国が激突した世界規模の戦争。日本は日英同盟を口実として協商国側で参戦し、アジア・太平洋地域における権益を大幅に拡大した。空前の大戦景気によって日本資本主義は飛躍的な発展を遂げた一方で、強引な外交姿勢は中国の民族運動や欧米列強の警戒を招く結果となった。
ヨーロッパでの開戦と日本の参戦
1914年(大正3年)6月、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されたサライェヴォ事件を導火線として、ドイツ・オーストリアを中心とする同盟国と、イギリス・フランス・ロシアを中心とする協商国の間で戦端が開かれた。当時の日本は第2次大隈重信内閣であったが、加藤高明外相の主導により、日英同盟の情誼を理由として直ちにドイツに対する宣戦布告を行った。
イギリスは当初、戦火が東アジアに拡大することを懸念して日本の参戦に消極的であったが、日本はこれを帝国主義的権益拡大の好機と捉えていた。日本軍はドイツの租借地であった中国山東省の青島(チンタオ)を攻略し、さらに赤道以北のドイツ領南洋諸島(マリアナ・カロリン・マーシャル各諸島)を無血占領して、アジア・太平洋における軍事的・政治的プレゼンスを急速に高めた。
対華21カ条の要求と外交的摩擦
ヨーロッパの主要国が総力戦に忙殺され、東アジアへの干渉能力を失っていた隙を突き、日本は対中外交を積極化させた。1915年(大正4年)、日本政府は中国の袁世凱大総統に対し、山東省のドイツ権益の継承、南満洲・東部内蒙古における日本の優越的地位の承認、漢冶萍公司(かんやひょうこんす)の日中合弁化などを求める対華21カ条の要求を突きつけた。
最後通牒を伴う強硬な手段によって要求の大部分を承認させたことは、中国国内に激しい反日感情を巻き起こし、後の五四運動(1919年)に代表される抗日民族運動の激化を招いた。さらに、中国市場の門戸開放を掲げるアメリカをはじめとする列強の強い警戒心を引き起こし、第一次世界大戦後の日本の国際的な孤立を深める遠因ともなった。
大戦景気による日本資本主義の躍進と社会不安
大戦が長期化するにつれ、主戦場となったヨーロッパの生産力が著しく低下した。その結果、交戦国からの軍需品の注文や、ヨーロッパ列強が撤退したアジア市場への輸出が急増し、日本経済は空前の大戦景気(大正バブル)に沸いた。特に海運業・造船業や鉄鋼・化学などの重化学工業が著しい成長を遂げ、成金(船成金など)と呼ばれる新興富裕層が次々と誕生した。
この大好況により、日本は明治以来の慢性的な貿易赤字から脱却し、莫大な対外債務を抱える「債務国」から、対外投資を行う「債権国」へと歴史的な転換を果たした。しかし一方で、急激な経済成長は著しいインフレーションを引き起こし、賃金の上昇が物価高騰に追いつかない都市民衆や農民の生活を直撃した。これが社会的な不満として鬱積し、1918年(大正7年)の米騒動という全国規模の民衆暴動を誘発することになる。
パリ講和会議と戦後国際秩序への参画
1918年11月にドイツが降伏して大戦が終結すると、翌1919年にフランスでパリ講和会議が開催された。日本は西園寺公望や牧野伸顕らを全権として派遣し、イギリス・フランス・アメリカ・イタリアとともに「五大国」の一角としてヴェルサイユ条約の策定に参加した。この条約により、日本は山東省の旧ドイツ権益の継承と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の委任統治権を国際的に認められた。
さらに、アメリカ大統領ウィルソンの提唱で設立された国際連盟においては常任理事国に就任し、日本の国際的地位は史上かつてない高みに達した。しかし、日本が提案した「人種差別撤廃案」はアメリカやイギリス(オーストラリア)の反対により否決され、西欧白人国家を中心とする国際秩序の厚い壁を見せつけられる結果ともなった。その後、肥大化した日本の権益は、1921年からのワシントン会議において一定の制限を受けることとなる。
「総力戦」の衝撃と国家総動員への伏線
第一次世界大戦は、人類史上初めて、前線の兵力だけでなく銃後の産業力・経済力・科学技術から国民の思想に至るまで、国家の全力を挙げて戦う「総力戦」となった。この事実は、日本の陸海軍の指導層や官僚たちに極めて深刻な衝撃を与えた。
来るべき次なる大戦を生き抜くためには、平時から国家の全資源を一元的に統制・運用する「国家総動員体制」の構築と、自給自足の経済圏(広域経済圏)の確保が不可欠であるとの認識が軍部内に定着した。この総力戦思想は、後の満洲事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと至る、日本の軍国主義化と国家総動員法制定の根底をなす重要なイデオロギー的背景となったのである。