立志社建白 (りっししゃけんぱく)
【概説】
明治維新期の1877年、土佐の政治結社「立志社」の片岡健吉らが明治天皇に提出しようとした建白書。西南戦争という最大の士族反乱の最中に、藩閥政府による「有司専制」の失政を激しく批判し、国会開設や条約改正などを求めた。武力ではなく言論によって政府を追及した、初期自由民権運動の記念碑的史料である。
西南戦争の勃発と言論による対抗
1877年(明治10年)2月、西郷隆盛を擁した鹿児島士族が武装蜂起し、明治政府最大かつ最後の士族反乱である西南戦争が勃発した。この未曾有の危機に対し、土佐(高知県)で自由民権運動を展開していた板垣退助や片岡健吉らの結社「立志社」は、武力による抵抗ではなく、言論と制度改革の要求によって政府の妥協を引き出す方針を採った。こうして、若き理論家であった植木枝盛らが中心となって起草されたのが「立志社建白」である。
同年6月、立志社社長の片岡健吉らは京都に滞在していた明治天皇への直訴を試みた。しかし、政府(太政官)は「臣民が直接、天皇に建白することはできない」としてこれを却下した。しかし、立志社はその内容を新聞などで広く公表し、世論に直接訴えかける手法をとったため、全国的な反響を呼ぶこととなった。
有司専制批判と八カ条の要求
立志社建白の最大の特徴は、西南戦争が起きた根本的な原因を「政府の専制政治(有司専制)」にあると断定した点にある。天皇の権威を盾に一部の藩閥出身者が権力を独占し、国民の声を政治に反映させていないことが世の混乱を招いていると厳しく批判した。
具体的な建白の内容は八カ条からなり、民撰議院(国会)の開設を最優先課題として掲げたほか、不平等条約の改正、地租の軽減、常備兵制度の改革、士族への適切な救済措置、言論・集会の自由などを求めた。これらは、単に士族の特権擁護にとどまらず、広く平民層の不満や不平等条約への不満を代弁する性格を有していた。
建白書の挫折と自由民権運動への影響
この建白書は政府によって却下され、直ちに政治改革が実現することはなかった。また、立志社内部では、言論闘争に飽き足らない一部の過激派(林有造ら)が西南戦争に乗じた武装蜂起を画策し、後に逮捕される「立志社の獄」が発生するなど、組織的な打撃も被った。
しかし、立志社建白は新聞を通じて全国に紹介され、不満を募らせていた全国の知識人や豪農、旧士族らに多大な影響を与えた。武力による反乱が西南戦争の終結によって鎮圧された後、日本の反政府運動は言論による自由民権運動へと完全に舵を切ることになる。その意味で、立志社建白は武力闘争から言論闘争への転換点を象徴する、極めて重要な歴史的役割を果たしたのである。