後醍醐天皇
【概説】
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての第96代天皇。大覚寺統から即位し、天皇親政の実現を目指して二度の倒幕計画(正中の変・元弘の乱)を起こし、鎌倉幕府を滅亡させた。その後、天皇の絶対的権力に基づく建武の新政を開始するも武士階級の離反を招き、吉野に南朝を樹立して南北朝の激しい動乱を引き起こした。
両統迭立と親政への志向
後醍醐天皇(尊治親王)は、大覚寺統の後宇多天皇の第二皇子として生まれた。当時の皇室は、幕府の調停によって大覚寺統と持明院統が交互に皇位に就く両統迭立の原則が保たれていた。後醍醐自身の即位も、本来は皇位を自らの家系(後の南朝)ではなく、大覚寺統の嫡流である邦良親王や持明院統に渡すまでの「中継ぎ」として位置づけられていた。しかし、彼は自らの子孫に皇位を継承させることを強く望み、皇位継承に干渉する鎌倉幕府の存在を排除して天皇への権力集中を図るようになった。
天皇は、菅原道真の時代を最後に途絶えていた天皇主催の政務機関である記録所を再興し、天皇親政が行われていたとされる延喜・天暦の治(醍醐天皇・村上天皇の時代)を理想として掲げた。また、宋から伝来した大義名分を重んじる朱子学(宋学)の影響を受け、君臣の絶対的な秩序を重視する思想を深め、既存の慣習や身分にとらわれない異例の人材登用を行った。
二度の倒幕計画と鎌倉幕府の滅亡
幕府の統制を打破するため、後醍醐天皇は密かに倒幕を志した。1324年(正中元年)、側近の日野資朝らと倒幕を企てたが事前に発覚し、失敗に終わった(正中の変)。このとき天皇自身は処罰を免れたものの、さらに倒幕への決意を固めていく。1331年(元弘元年)、再び倒幕計画が露見すると、天皇は三種の神器を持って笠置山に逃れたが、幕府軍に捕らえられ隠岐へと配流された(元弘の乱)。
幕府は新たに持明院統の光厳天皇を擁立したが、後醍醐天皇の倒幕を促す綸旨(天皇の命令書)は全国に波及した。これに呼応して、河内の楠木正成や播磨の赤松則村(円心)ら「悪党」と呼ばれた新興武士層がゲリラ戦を展開し、幕府軍を翻弄した。1333年(元弘3年)、天皇が名和長年らの助けで隠岐から脱出すると倒幕の機運は頂点に達した。幕府の有力御家人であった足利高氏(尊氏)が離反して京都の六波羅探題を攻略し、さらに関東では新田義貞が挙兵して鎌倉を攻め落とし、約150年続いた鎌倉幕府はついに滅亡した。
建武の新政とその挫折
京都に帰還した後醍醐天皇は、光厳天皇の即位や幕府の決定をすべて無効とし、年号を「建武」と改めて天皇による絶対的な専制政治、すなわち建武の新政を開始した。天皇の綸旨を絶対的な法的主張とし、中央には記録所や恩賞方、雑訴決断所などの機関を置き、地方には国司と守護を併置して公家と武家の統合を図った。
しかし、この政治は公家を優遇する一方で、倒幕に大きな功績のあった武士層の恩賞に対する不満を軽視するものであった。さらに、内裏造営のための多額の税の徴収や、紙幣(乾坤通宝)の発行計画など、当時の社会情勢にそぐわない現実離れした政策が相次ぎ、社会に大きな混乱をもたらした。結果として、「二条河原の落書」に象徴されるように、新政への失望と批判が瞬く間に広がっていった。
吉野潜幸と南北朝の動乱
新政の崩壊は、1335年(建武2年)に北条氏の残党が反乱を起こした中先代の乱を契機に決定的なものとなった。討伐に向かった足利尊氏は、乱を平定した後も鎌倉に留まり、天皇の帰京命令を無視して独自の恩賞を与え始めた。後醍醐天皇は新田義貞らを差し向けて尊氏を討とうとしたが、尊氏は京都へ向けて進軍を開始した。一度は九州へ逃れた尊氏であったが、再び東上して湊川の戦いで楠木正成らを破り、京都を制圧した。
尊氏が新たに持明院統の光明天皇を擁立し、建武式目を制定して室町幕府を開くと、後醍醐天皇は「光明天皇に渡した三種の神器は偽物である」と主張して大和国(奈良県)の吉野へ逃れ、自らの正統性を主張して南朝を樹立した。これにより、日本に二人の天皇と二つの朝廷が並立する南北朝時代が幕を開けた。後醍醐天皇は京都奪還を果たすことなく、1339年(延元4年/暦応2年)に吉野で無念の崩御を遂げたが、彼が振りかざした強烈なカリスマ性と天皇親政の理念は、中世の王権のあり方を大きく揺るがし、後世の歴史観にも多大な影響を与え続けた。