正中の変

1324年、後醍醐天皇が無礼講の酒宴を利用して密かに幕府打倒を計画したが、未然に発覚して側近が流罪となった事件は何か?
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★★★

正中の変 (しょうちゅうのへん)

1324年

【概説】
1324年(正中元年)に発覚した、後醍醐天皇による最初の鎌倉幕府打倒計画、およびそれに伴う弾圧事件である。側近の日野資朝らが中心となり、畿内の武士や悪党を糾合して六波羅探題の襲撃を企てたが、密告により事前に露見して失敗に終わった。この事件は、のちの元弘の乱から鎌倉幕府滅亡、そして建武の新政へと続く激動の時代の端緒となった。

後醍醐天皇の即位と倒幕への志向

鎌倉時代末期、朝廷は大覚寺統持明院統という二つの皇統に分裂し、鎌倉幕府の介入のもとで交互に天皇を出す「両統迭立(りょうとうてつりつ)」の状態にあった。1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、傍流とみなされ「一代の主(中継ぎの天皇)」として扱われており、自身の直系に皇位を伝えることが極めて困難な状況に置かれていた。

これに不満を抱いた後醍醐天皇は、朝廷の人事や皇位継承に強大な権限を振るう鎌倉幕府の存在を疎ましく思うようになった。折しも、天皇は宋学(朱子学)などの新しい学問に触れて大義名分論に強く影響を受けており、武家から政治の実権を取り戻して天皇親政を復活させるという、壮大な倒幕の志を抱くに至ったのである。

「無礼講」を隠れ蓑にした密謀

倒幕を実現するため、後醍醐天皇は身分にとらわれず優秀な人材を登用した。その中核となったのが、公家である日野資朝(ひのすけとも)や日野俊基(ひのとしもと)らであった。彼らは幕府の監視機関である六波羅探題の目を欺くため、「無礼講」と呼ばれる型破りな宴会を頻繁に開催した。

この無礼講は、烏帽子を外し、身分や格式を抜きにして酒を酌み交わすという当時の常識を覆すものであった。資朝らはこの宴会を隠れ蓑として、美濃の武士である土岐頼兼(ときよりかね)や多治見国長(たじみくになが)らを招き入れ、彼らを中心とした畿内周辺の武士や悪党を糾合して、六波羅探題を急襲する謀議を密かに進めていた。

計画の露見と幕府による処分

しかし1324年(正中元年)9月、決行を目前にして計画は頓挫する。土岐頼兼の妻が事の重大さに恐れをなし、一族を通じて六波羅探題に密告したためである。情報を察知した幕府は即座に軍勢を動かし、京都の土岐・多治見らの宿所を急襲。不意を突かれた頼兼や国長らは討死、あるいは自刃に追い込まれた。

さらに幕府は、首謀者として日野資朝と日野俊基を捕縛し、鎌倉へと護送した。事件における後醍醐天皇の関与は誰の目にも明らかであったが、幕府側は事態の深刻化を恐れ、天皇自身の責任追及には慎重な姿勢をとった。後醍醐天皇も側近の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)を鎌倉に派遣し、神仏にかけて倒幕の企てを否定する「告文(ごうもん)」を提出して徹底的に弁明した。その結果、天皇は処罰を免れ、日野俊基も証拠不十分で赦免されたものの、日野資朝は佐渡国への流罪となった。

歴史的意義と元弘の乱への伏線

正中の変は、幕府の迅速な対応によって未然に防がれたものの、現職の天皇が武力による倒幕を画策したという事実は、鎌倉幕府の権威に大きな衝撃を与えた。この事件を通じて、幕府の支配力が畿内周辺で低下しつつあることや、反幕府的な「悪党」たちの存在が無視できない勢力となっていることが浮き彫りとなった。

後醍醐天皇は側近を失う打撃を受けたが、倒幕の意志を曲げることはなかった。天皇はその後も水面下で計画を練り直し、1331年に再び倒幕の兵を挙げることになる(元弘の乱)。正中の変は単なる失敗したクーデター未遂にとどまらず、鎌倉時代から建武の新政、そして室町時代へと連なる激動の内乱期へ突入する、決定的な歴史の転換点であったと評価できる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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