日野資朝

1324年の正中の変で、後醍醐天皇の討幕計画に関与したとして幕府に捕らえられ、佐渡に流された天皇の側近は誰か?
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重要度
★★

【参考リンク】
日野資朝(Wikipedia)

日野資朝 (ひのすけとも)

1290年〜1332年

【概説】
鎌倉時代末期の公家であり、後醍醐天皇の側近として討幕計画を主導した人物。日野俊基らとともに「無礼講」と呼ばれる密議を通じて反幕府勢力を結集させたが、計画が漏洩した正中の変で捕らえられて佐渡へ流され、のちに処刑された。

後醍醐天皇の近臣と「無礼講」による倒幕運動

日野資朝は、格式高い日野家(藤原北家日野流)の出身で、実務能力と高い教養を兼ね備えた公家であった。鎌倉時代末期に即位した後醍醐天皇は、意欲的に親政を展開し、やがて鎌倉幕府の打倒を志すようになる。資朝は、同族の日野俊基らとともにその側近(学問的近臣)として抜擢され、天皇の討幕計画の立案と、それに賛同する武士の組織化に奔走した。

資朝らは、身分の垣根を取り払って酒を酌み交わす「無礼講」と呼ばれる宴会を頻繁に開催した。この宴の席は、建前上は歌会や茶会などの文化的社交の場とされたが、実際には討幕に向けた同志獲得のための政治的陰謀の場であった。ここには美濃源氏の有力武士である土岐頼兼や多治見国長らが招かれ、反幕府のネットワークが急速に構築されていった。

「正中の変」の勃発と佐渡への流罪

1324年(正中元年)、密かに進められていた討幕計画は、計画に加わっていた武士の裏切りによって、六波羅探題に事前に知られることとなった。これが正中の変である。六波羅探題の軍勢によって美濃の武士らは急襲・討伐され、資朝も俊基とともに捕縛されて鎌倉へと護送された。

幕府による厳しい尋問に対し、資朝は後醍醐天皇の関与を否定し通した。このとき、後醍醐天皇も幕府に対して弁明の誓紙を送り無実を主張したため、天皇に対する処分は見送られた。その結果、資朝が首謀者としての全責任を負う形となり、1325年に佐渡国への流罪に処された(一方、日野俊基は免罪されて京都に戻った)。流刑地となった佐渡において、資朝は現地の文化人と交流し、随筆『佐渡国司田記』を著すなど、教養人としての足跡を残している。

「元弘の乱」と最期、そして歴史的影響

資朝の流刑後も、後醍醐天皇による討幕の意思は衰えなかった。1331年(元弘元年)、天皇はふたたび討幕へと立ち上がるが(元弘の乱)、これに伴い、幕府は佐渡に留め置かれていた資朝の処分を決定した。翌1332年、資朝は佐渡の地で守護代・本間山城前司によって斬首された。軍記物語の『太平記』では、彼が処刑の際にも動じることなく、辞世の偈(げ)を遺して堂々と死に臨んだ様子が描かれており、後世に忠臣としての名声を残すこととなった。

資朝の処刑は鎌倉幕府による徹底抗戦の意思表示であったが、この直後、各地で足利尊氏や新田義貞、楠木正成らが蜂起し、結果的に幕府は滅亡へと向かう。日野資朝の行動は、中世の強固な封建支配に対抗し、天皇親政(建武の新政)を切り拓く先駆者としての極めて重要な歴史的役割を果たしたといえる。

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最終更新:2026年6月17日 @ 23:49

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