火牛の計

源義仲が倶利伽羅峠の戦いで用いたとされる、牛の角に松明をつけて敵陣に突撃させ、平氏軍をパニックに陥れた戦法を何というか?
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火牛の計 (かぎゅうのけい)

1183年

【概説】
治承・寿永の乱(源平合戦)における倶利伽羅峠の戦いにおいて、源義仲(木曽義仲)が平氏軍に対して用いたとされる奇襲戦法。牛の角に燃え盛る松明を結びつけて敵陣へ放ち、大混乱に陥れたとされる伝説的な計略である。

倶利伽羅峠の戦いにおける奇襲劇

1183年(寿永2年)5月、北陸道から京都への進撃を狙う源義仲の軍勢と、それを阻止せんとする平維盛率いる平氏の大軍が、越中国と能登国の国境に位置する砺波山の倶利伽羅峠で激突した。圧倒的な兵力差を誇る平氏軍に対し、義仲は昼間の正面衝突を避け、夜陰に乗じた奇襲作戦を計画した。このとき、地元の民から集めた数百頭の牛の角に松明を括り付け、敵の陣営に向けて一斉に放ったとされる。暗闇の中で突如として現れた火の群れに驚いた平氏軍は、大混乱に陥り、退路を失って深い谷底へと次々に転落し、壊滅的な打撃を受けた。

「火牛の計」の虚実と歴史的背景

この劇的な「火牛の計」のエピソードは、軍記物語である『平家物語』や『源平盛衰記』に詳しく描かれたことで後世に広く定着した。しかし、当時の貴族の日記(『玉葉』など)といった一次史料には、義仲による夜襲の事実は確認できるものの、松明をつけた牛を用いたという具体的な記述は見られない。この計略は、中国の戦国時代に斉の将軍・田単が燕の軍勢を破った「火牛の陣」の故事をもとに、後世の物語作者が義仲の卓越した戦術眼や奇襲の凄まじさを強調するために取り入れた脚色・創作である可能性が高いと研究者の間では考えられている。実際の戦闘は、地形を利用した巧妙な包囲戦と夜襲によるものであったと推測されるが、「火牛の計」は義仲の武名を高め、平氏没落の契機となった歴史的転換点を象徴する伝説として語り継がれている。

最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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