源範頼

源義経の異母兄であり、ともに大将として木曽義仲を討ち、一の谷などの合戦で活躍したが、のちに頼朝に殺された武将は誰か?
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重要度
★★

源範頼 (みなもとののりより)

1150年頃〜1193年

【概説】
源頼朝の異母弟であり、源義経とともに平氏打倒の追討軍を率いた鎌倉時代初期の武将。優れた統率力で平氏追討の本隊を率いて九州を制圧し、平氏滅亡に決定的な役割を果たしたが、のちに頼朝の猜疑心に触れて伊豆へ流され、非業の死を遂げた。

平氏追討における「大手軍」としての堅実な手腕

源範頼は源義朝の六男であり、源頼朝の異母弟、源義経の異母兄にあたる。治承・寿永の乱(源平合戦)において、範頼は頼朝の代官として東国武士団を率いる「大手軍(本隊)」の総大将に任命された。義経が奇策を用いた「搦手軍(からめてぐん)」を率いて一ノ谷の戦いや屋島の戦いで華々しい武功を挙げたのに対し、範頼は山陽道を進軍して兵糧の確保や御家人の統制に努め、九州へ渡って平氏の背後を遮断するという、地味ながらも戦略的に極めて重要かつ困難な任務を遂行した。この組織的で堅実な用兵こそが、最終的な壇ノ浦の戦いにおける平氏滅亡を決定づける盤石な包囲網を作り上げたのである。

頼朝との良好な関係と政治的立場

平氏滅亡後、義経が頼朝と対立して没落していく中、範頼は頼朝の忠実な臣下としての立場を貫いた。義経追討への協力を惜しまず、鎌倉幕府の創設期における有力な「門葉」(源氏一門)の筆頭として、頼朝から厚い信頼を寄せられていた。範頼は自らの立場をわきまえ、東国武士たちの信頼を集めつつも、常に頼朝の意志を尊重する姿勢を崩さなかった。これにより、範頼は頼朝体制を支える軍実に優れた政治的・軍事的支柱の一人となった。

猜疑心の犠牲となった「曽我兄弟の仇討ち」と最期

しかし、頼朝の独裁政権が強化されるにつれ、強力な軍事統率力と人望を持つ範頼の存在は、次第に警戒の対象となっていった。1193年(建久4年)、富士の巻狩りの際に起きた「曽我兄弟の仇討ち」において、頼朝が討たれたという誤報が鎌倉に伝わった。嘆き悲しむ頼朝の妻・北条政子に対し、範頼が「範頼が控えておりますので、御心配には及びません」と慰めたとされる。この発言が、頼朝に謀反の野心があると誤解される引き金となった。範頼は潔白を証明するため起請文を捧げたが、頼朝の猜疑心は晴れず、伊豆国の修禅寺に幽閉され、同年のうちに誅殺(あるいは自害)された。頼朝による親族・功臣粛清の冷酷さを示す象徴的な事件であった。

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最終更新:2026年6月20日 @ 14:54

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