讃岐国 (古代〜明治初期)
【概説】
南海道に属する令制国の一つで、現在の香川県に相当する地域。瀬戸内海の海上交通における極めて重要な拠点であり、中世の源平合戦(治承・寿永の乱)においては、平氏の拠点となった屋島を擁し、歴史の転換点となる激戦が繰り広げられた地。
古代から中世へ:瀬戸内海を掌握する要衝の地
讃岐国は、四国の北東部に位置し、瀬戸内海を挟んで中国地方(山陽道)と対峙する地理的条件から、古代より海上交通の結節点として極めて重視された。律令制下では南海道に属し、畿内と西国を結ぶ海路の中継地として機能した。
また、精神史的・文化的な側面でも重要な地であった。真言宗の開祖である空海(弘法大師)の出身地(多度郡)として知られ、中世には四国八十八箇所霊場を巡る遍路の信仰が形成されていく。さらに、1156年の保元の乱で敗れた崇徳上皇の配流先でもあり、上皇の怨霊伝説はこの地に深く刻まれ、都の貴族社会や武士たちに大きな心理的影響を与え続けた。このように讃岐国は、単なる地方の一国にとどまらず、中央の動向と密接に結びついた政治的・文化的空間であった。
源平争乱の佳境:平氏の拠点「屋島」と義経の奇襲
讃岐国が日本史の表舞台において最も脚光を浴びたのが、12世紀末の治承・寿永の乱(源平の争乱)である。1184年の一ノ谷の戦い(神戸市)で源氏に大敗した平氏は、安徳天皇と三種の神器を奉じて讃岐国の屋島(現在の高松市)に内裏を置き、ここを再起のための本拠地とした。平氏は優れた水軍力を背景に瀬戸内海の制海権を握り、讃岐国を中心として四国・中国地方への支配力を再構築しようと試みた。
これに対し、源頼朝から平氏追討を命じられた源義経は、1185年2月、暴風雨を突いて摂津国から阿波国(徳島県)へ渡海。背後を突かれた平氏の虚を突く形で、陸路から讃岐国へ進撃した。義経によるこの電撃的な奇襲により、平氏は大混乱に陥り、背後の海上に逃れて防戦を余儀なくされた。この屋島の戦いでは、「那須与一の扇の的」や「義経の弓流し」といった『平家物語』の名場面が生み出されている。結果として、平氏は屋島の拠点を失い、瀬戸内海の支配権を完全に喪失して長門国壇ノ浦へと追い詰められることとなった。
鎌倉・室町期の動向:守護の変遷と中世の展開
屋島の戦いを経て鎌倉幕府が成立すると、讃岐国には守護が置かれた。初期には梶原氏や近藤氏などが補任されたが、承久の乱(1221年)以降は、幕府の統制強化に伴い北条氏一門が守護職を歴任することが多くなった。これは、西国への睨みを利かせる上で、讃岐国が軍事・交通の要衝として依然として重視されていたことの証左である。
室町時代に入ると、讃岐国は幕府の宿老(管領)を輩出する有力守護大名・細川氏の分家(讃岐細川家など)が支配する守護領国となった。細川氏は讃岐を足がかりに阿波や土佐など四国東部への支配力を強め、室町幕府の政治秩序を支える強固な基盤を築き上げた。讃岐国は、中世を通じて常に瀬戸内海交通と武家権力の軍事戦略において枢要な位置を占め続けたのである。