長岡京
【概説】
784年(延暦3年)に桓武天皇が平城京から山背国(後の山城国)乙訓郡に遷した都。水陸交通の利便性を求めて造営が進められたが、造営長官である藤原種継の暗殺事件や、それに連座した早良親王の怨霊の噂、度重なる自然災害などにより、わずか10年で平安京へ再遷都された。
平城京からの脱却と遷都の背景
784年(延暦3年)、桓武天皇は奈良の平城京から山背国乙訓郡の長岡京へと都を遷した。この遷都の背景には、複数の重大な政治的意図が存在した。第一に、天武天皇の血統から天智天皇の血統(光仁天皇・桓武天皇)へと皇統が移行したことを受け、天武系皇統と結びついていた既存の貴族勢力や、政治に深く介入していた南都六宗などの仏教勢力から物理的に距離を置き、政治と人心を一新させる狙いがあった。第二に、律令国家の財政難や政治の行き詰まりを打破するため、新たな水陸交通の要衝に都を構えることで、経済的な基盤を再構築しようとする国家的プロジェクトであった。
水上交通の要衝としての機能と造営
長岡京が新都の地として選ばれた最大の地勢的理由は、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる地点に近く、難波津(大阪湾)を通じて瀬戸内海へと繋がる水上交通の要衝であったことである。平城京は陸の孤島ともいえる地形で、諸国からの調・庸などの税物資の輸送に大きな負担がかかっていた。長岡京の造営においては、桓武天皇の信任が厚かった藤原式家の藤原種継が造営長官(造長岡宮使)に任命された。種継は淀川水系を利用して諸国からの物資をスムーズに搬入し、新たな都の建設を強力に推し進めた。
藤原種継暗殺事件と早良親王の悲劇
しかし、新都造営は順風満帆には進まなかった。遷都の翌年である785年(延暦4年)、造営の総責任者であった藤原種継が何者かによって暗殺されるという大事件が発生する。この事件の背後には、平城京に留まることを望む旧勢力の反発や、旧来から朝廷の軍事を担いながらも藤原氏の台頭によって冷遇されていた大伴氏などの不満があったとされる。桓武天皇は激怒し、首謀者として大伴継人らを処刑しただけでなく、事件に連座したとして実弟であり皇太弟であった早良親王(さわらしんのう)を廃嫡した。早良親王は無実を訴えて絶食し、淡路国への配流の途上で憤死を遂げるという痛ましい結果となった。
相次ぐ災厄と平安京への再遷都
早良親王の死後、長岡京では桓武天皇の周囲で不幸が立て続けに起こる。天皇の母である高野新笠や皇后の藤原乙牟漏が相次いで病死し、さらには皇太子(後の平城天皇)も重病に倒れた。加えて、都には疫病が蔓延し、川の氾濫による大規模な水害も発生した。当時の人々はこれらの災厄を早良親王の怨霊による祟りであると恐れ戦いた。怨霊の恐怖と、地形的に水害に脆弱であるという長岡京の都市的欠陥が明らかになったことで、和気清麻呂らの進言もあり、桓武天皇は長岡京を放棄する決断を下す。そして794年(延暦13年)、さらに北東の山背国葛野郡へ再び都を遷し、平安京が誕生することとなった。長岡京は「幻の都」としてわずか10年でその役割を終えたが、律令体制の再建と天皇権力の強化を目指した桓武天皇の治世において、古代国家の転換点となる重要な過渡期を形成した。