奨学院 (しょうがくいん)
【概説】
平安時代前期に在原行平によって設立された、在原氏一族の教育・生活支援のための大学別曹(学生寮)。大学寮における官僚養成制度の補完として機能し、一族から優秀な官人輩出を目指した。弘文院、勧学院、学館院と並び、平安期の「四大大学別曹」の一つに数えられる。
大学別曹の興隆と奨学院の設立背景
律令制下の日本において、官僚養成機関である大学寮で学ぶことは貴族・官人にとって出世の必須ルートであった。しかし、平安時代初期、政治の主導権が特定の有力貴族に集中するようになると、各氏族は自らの一族を優先して官僚へと登用させるため、大学寮に在籍する一族の子弟(氏人)を財政的・教育的に保護する独立した寄宿・学習施設を設けるようになった。これが大学別曹である。
在原氏は平城天皇の第一皇子である阿保親王の子孫からなる格式高い氏族であったが、藤原氏の台頭に圧迫され、政治的な地位は次第に不安定化していた。こうした状況下、在原氏の氏長者であった在原行平は、一族の存続と勢力挽回には学識を備えた優秀な人材の育成が不可欠であると痛感し、元慶5年(881年)に自邸を寄進して「奨学院」を創設した。設立にあたっては、朝廷に公認された私設機関(官曹化)としての地位を得て、独自の財源確保や運営の安定化が図られた。
奨学院の機能と運営体制
奨学院の主な機能は、大学寮に学ぶ在原氏の学生に対して、無償で宿舎と食事を提供し、学問に必要な高価な書籍(主に漢籍)を整備することであった。当時は紙や書籍が極めて貴重であり、個人でこれらを用意することは困難であったため、一族が共同で利用できる図書室の存在は、学生にとって計り知れない恩恵となった。
また、奨学院は単なる寄宿舎にとどまらず、独自の教員を配置して講義を行うなど、大学寮の予備校としての役割も果たしていた。さらに、優秀な学生には奨学金(学問奨励費)が支給されるなど、教育環境の格差を埋めるための社会保障的・援助的な性格も強く持ち合わせていた。
藤原氏の優位と奨学院のその後の変遷
奨学院は、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院、橘氏の学館院と並んで平安四大大学別曹と称されたが、その運命は母体となる氏族の興亡と密接に結びついていた。藤原氏が摂関政治を通じて圧倒的な権力を掌握すると、藤原氏の勧学院が他の大学別曹を圧倒していくことになる。これに対し、在原氏は次第に中下流の貴族へと没落し、奨学院の独自運営は困難を極めるようになった。
その結果、平安後期に入ると在原氏の衰退に伴い、奨学院は同じく経営難に陥っていた皇室ゆかりの淳和院(淳和天皇の後裔を支援する別曹)と一体化して管理されるようになった。最終的には、源氏や平氏、さらには藤原氏などの有力な氏長者が「両院別当」を兼任して管理するようになり、在原氏の手を離れて名目上の官職(両院別当は公卿の兼官の一つとなった)としての位置づけに変化しながら、形骸化していった。