唐様(唐風の書道) (からよう)
【概説】
平安時代初期の弘仁・貞観文化期を中心に流行した、中国風の力強く均整のとれた書風。晋の王羲之や唐の顔真卿らの書を模範とし、嵯峨天皇や空海、橘逸勢ら「三筆」によって牽引された。のちの国風文化期に成立する日本独自の「和様」に対して、中国伝来の正統的な系統を引く書体を指す。
唐風文化(弘仁・貞観文化)の隆盛と三筆の活躍
平安遷都を断行した桓武天皇や、続く平城天皇、嵯峨天皇の時代は、律令国家の再建を目指して唐の制度や文化を積極的に取り入れた時期であった。特に嵯峨天皇の宮廷では、儀式や朝廷の制度が中国風に改められ、漢詩文の作成や書道が貴族の必須教養とされた。このような時代背景の中で、中国の書風を直輸入した「唐様(唐風)」の書が全盛期を迎えることとなる。
この唐様の黄金期を象徴するのが、嵯峨天皇・空海・橘逸勢の3人であり、彼らは後世に三筆と称された。特に最澄とともに遣唐使として渡唐した空海は、王羲之の伝統的な書風のみならず、唐で流行していた顔真卿の力強く個性的な書風(顔体)をも吸収して帰国し、日本の書道界に大きな衝撃を与えた。空海が最澄に宛てた手紙である『風信帖』は、唐様の最高峰として現在に伝えられている。
和様への移行と「唐様」の歴史的変遷
9世紀末に遣唐使が停止され、10世紀の国風文化期に入ると、仮名の発達とともに日本人の感性に合わせた優美で流麗な書風である和様が誕生した。小野道風・藤原佐理・藤原行成の「三跡」の登場により、宮廷や貴族社会における主流は和様へと移行し、平安初期の力強い唐様は一時的に影を潜めることとなった。
しかし、「唐様」という概念は平安初期のものだけに留まらない。鎌倉時代から室町時代にかけて、禅宗の伝来とともに宋や元の新しい書風(宋風)がもたらされると、これが再び「唐様」として和様に対比された。さらに江戸時代には、儒学(朱子学)の興隆や黄檗宗の伝来にともない、文人の間で唐様の書が再び大流行することとなる。このように、唐様は日本の書道史において、常に先進的な中国文化の象徴として、また和様に対する創造的刺激として機能し続けた重要な書風である。