三筆
【概説】
平安時代初期の弘仁・貞観文化期において、唐風の書(唐様)の名手とされた嵯峨天皇・空海・橘逸勢の3人の総称。
中国の先進的な文化を積極的に受容した当時の風潮を背景に、力強く雄渾な書風を確立し、日本の書道史に大きな足跡を残した。
弘仁・貞観文化と唐風化の波
平安遷都後の9世紀初頭、桓武天皇や嵯峨天皇の時代には、律令国家の立て直しを図るために唐の政治制度や文化が積極的に導入された。この時期の文化は弘仁・貞観文化と呼ばれ、漢詩文の教養が貴族の必須条件となるなど、極めて強い唐風への傾倒が見られた。
こうした時代背景のなか、書道においても東晋の王羲之や唐の顔真卿などの書法が尊ばれ、中国風の力強い書風である唐様(からよう)が大流行した。「三筆」とは、この唐様の書道において同時代のみならず後世からも最高の評価を受けた三名の傑物に対する尊称である。
三筆の顔ぶれと現存する名筆
三筆を構成するのは、時の最高権力者であった天皇、真言密教をもたらした不世出の宗教家、そして遣唐使として渡海した官人という、全く異なる立場にあった三人である。
第一が嵯峨天皇である。彼は文化の強力なパトロンとして『凌雲集』などの勅撰漢詩集を編纂させたことで知られるが、自身も唐の欧陽詢の書風に影響を受けた優れた書家であった。比叡山延暦寺の僧に戒律を授ける際の許可証である『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』などにその端正な筆致を見ることができる。
第二が、真言宗の開祖である空海(弘法大師)である。804年に遣唐使として入唐した空海は、最新の密教のみならず、中国の多様な書体や筆の製法までをも日本に持ち帰った。「五筆和尚」の異名をとるほどあらゆる書体に精通しており、とりわけ天台宗の開祖・最澄宛てに書かれた尺牘(手紙)である『風信帖(ふうしんじょう)』は、日本の書道史上の最高傑作の一つに数えられている。
第三が、空海と共に遣唐使として唐に渡った橘逸勢(たちばなのはやなり)である。唐の文人から「橘秀才」と称賛されるほどの才能の持ち主であったが、帰国後は政治的に不遇であり、後に承和の変(842年)で謀反の罪を着せられ流罪となる悲劇の生涯を送った。確実な真筆は残されていないが、流麗な行書で書かれた『伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)』が彼の筆跡として伝わっている。
和様書道への橋渡しとしての歴史的意義
三筆によって頂点を極めた唐様の書道は、平安貴族の美意識の基盤を形成した。しかし、9世紀末に遣唐使が実質的に停止されると、10世紀にかけて日本の風土や日本人の感覚に合った優美で柔らかな文化(国風文化)が醸成されていくことになる。
書道においても、次第に唐様の影響から脱却し、ひらがなや日本独特の丸みを帯びた漢字の書風である和様(わよう)が成立した。これを大成したのが、10世紀から11世紀にかけて活躍した小野道風・藤原佐理・藤原行成の「三跡」(さんせき)であった。三筆の存在は、日本人が中国の高度な漢字文化を完全に咀嚼・吸収した到達点を示すものであり、彼らの確立した唐様の基礎があってこそ、その後の和様書道の華々しい展開が可能となったのである。